Enders and Tofighi (2007) "Centering Predictor Variables in Cross-Sectional Multilevel Models: A New Look at an Old Issue"

Enders, Craig K. and Davood Tofighi. 2007. "Centering Predictor Variables in Cross-Sectional Multilevel Models: A New Look at an Old Issue." Psychological Methods 12: 121-38.

 

 一読ではそれほど理解できているとは言い難いですが、 これまで真面目に考えたことがないトピックだったので勉強になりました。

 グループ平均へのセンタリングについては、パネルデータ分析の知識を応用できるところも多いです。しかし、「レベル2の変数間の交互作用を検証する上では、全体平均へのセンタリングが適切」など、全体平均を用いる視点は、マルチレベル分析の文脈ならではと言ってよいのかもしれません。

 

 全体平均へのセンタリングと、グループ平均へのセンタリングのどちらを用いるかは、統計的な証拠に基づいて決めることはできず、実質的なリサーチ・クエスチョンに大きく依存する。この問題は明らかに複雑であり、いかなる単一のモデルによっても、実証的なリサーチ・クエスチョンのすべてに対処することはできないかもしれない。実際のところ、単一の研究の中で全体平均へのセンタリングとグループ平均へのセンタリングの両方を用いることは、理にかなっているように思われる。あるリサーチ・クエスチョンには全体平均へのセンタリングが求められ、別のリサーチ・クエスチョンにはグループ平均へのセンタリングによって取り組むのが最善だということもありえる。実証的な問いが全体平均へのセンタリングを要求する場合においても、全体平均へのセンタリングによる推定値には負のバイアスが起きうるため、グループ平均へのセンタリングが傾きの分散に対するもっとも正確な推定値をもたらす可能性があると、Raudenbush and Bryk(2002)は述べている。
 この論文では、実証研究と方法論に従事する人々の両者に役立つことを願って、いくつかの単純な経験則を提示した。この指針は以下の通りである。(a)XとYのLevel1の関連に実証的な関心があるならば、グループ平均へのセンタリングが適切である。(b)Level2の独立変数に主要な関心があり、Level1の共変量を統制したいならば、全体平均へのセンタリングが適切である。(c)Level1とLevel2における異なる影響を検証したいならば、全体平均へのセンタリングとグループ平均へのセンタリングのどちらも用いることができる。(d)クロスレベル交互作用、あるいはLevel1の変数どうしの交互作用を検証するためにはグループ平均へのセンタリングが望ましく、Level2の変数どうしの交互作用を検証するには全体平均へのセンタリングが適切である。

[pp. 135-6]

 

Western and Jackman (1994) "Bayesian Inference for Comparative Research"

Western, Bruce and Simon Jackman. 1994. "Bayesian Inference for Comparative Research." American Political Science Review 88: 412-23.

 

 ベイジアンの考え方を提示する前に言うならば、めったに出くわさないような非常に極端な事例(完全または完全に近い線形的な依存関係)を除けば、共線性は統計的な困難はもたらさない。最小二乗推定量の性質は維持され、統計的な推論は通常と同じく進めることが可能である。それならばなぜ、共線性は問題だと見なされるのだろうか。共線性に伴う困難―過大な標準誤差や回帰係数の予期しない符号―は、係数の符号や分散についての事前の期待(Leamer 1978, 170)から見た際にのみ、問題となるのである。つまりLeamerが述べるように、共線性とは統計的な問題ではなく、多次元的な証拠の解釈の問題なのである(pp. 170-73)。解釈の道具としては、共線性が存在する際には、ある係数と別の係数の情報を最小二乗推定量から区別することはできない。代わりに、最小二乗推定量は係数間の線形結合についての情報をもたらす。サンプル外の情報を用いると、主観的な基準に基づいてサンプルの情報を係数間に割り当てることが可能になる。
[中略]
 まとめれば、比較研究における小規模なデータや共線性がもたらす不十分な証拠は、モデルの特定化にきわめて左右されやすい、不十分で脆弱な推論をもたらす。これは不十分な証拠にもとづいた分析にともなう、自然な結果である。この問題に対する唯一の対処方法は、より多くの情報を導入することである。しかし現実的な問題として、より多くの情報が利用できることは多くはない。データはサンプルに含まれているすべての国からすでに集められている。近年注目を集めている、プーリング時系列国家間分析は、不十分なデータの問題に対する一つの改善法である(e.g., Alvarez, Lange, and Garett 1991; Beck et al. 1993; Radcliff 1992; Swank 1992)。しかし、対象となっているプロセスは時系列のばらつきよりも、国家間のばらつきがはるかに大きいので(e.g., Wallerstein 1989, 482)、時点を追加することが新たな情報をもたらすことは多くはない。たとえば制度は、時点による変化が大きくないものの、国家間では相当のばらつきがある。くわえて、共線性の問題は小規模サンプルの問題とは区別されるものであり、観察数にかかわらずプールされた国家間デザインの分析を困難にさせるものである。しかしながら、追加的な量的情報は通常は手に入らない一方で、比較研究・歴史研究における大規模で実質的に豊富な質的な情報はしばしば存在するものの、分析に適した形では手に入りにくい。ベイジアンの手続きは、比較研究における不十分な量的情報を、質的情報とプールし、より鋭敏な回帰係数を得ようとするものである。

[pp. 414-5]

 FisherとEfronによるこれらの[ベイジアンに批判的な]コメントは、「公正なデータ分析」、つまり事前の情報を用いないデータ分析が可能であるという考え方に立っている。しかしながら現実的には、コーディングの意思決定、変換、有意味な結果として期待される範囲に収まるという意味で、理にかなったように見える結果を得るための説明変数の探索を通じて、ほとんどの分析において事前の情報が入り込んでいる。すべてのデータ分析者は事前の信念を用いているものの、ベイジアンはこれらの事前情報をいくらか明確にして、分析において体系的に統合しているのである。その結果、ベイジアンのアプローチでは、主観性が客観性に通じるものだと認識されている(deFinetti 1974, 1:5-6)。 

[p. 419]

 

Becker (1994) "Human Capital Revisited"

Becker, Gary S. 1994.  "Human Capital Revisited." Human Capital: A Theoretical and Empirical Analysis with Special Reference to Education (3rd Edition). The University of Chicago Press, 15-28.

 

 自分用メモ:Rosenbaum(2001)の立場との共通点・異なる点を整理する。

 

 人的資本分析は、学校教育が主に知識、技能、問題分析の手法をもたらすことで、所得と生産性を向上させると想定する。しかしながら、これとは異なる見方として、学校教育が生産性を改善することを否定し、「学歴主義」を強調するものがある。すなわち、学歴は潜在的な能力、忍耐力、他の貴重な特質についての情報をもたらすものだという見方である。これらの分析の極端なものによれば、たとえば大卒者の所得が高卒者の所得を上回るのは、教育が生産性を向上させるためではなく、より生産的な生徒が大学に行くためであるとされる。
 学歴主義は明らかに存在する。しかし様々な証拠によれば、学歴主義は所得と学校教育にある正の関連のうち、ほとんどを説明していないのである。
 学歴主義に伴う大きな問題は、企業は学業における成功の情報を欲しているのではなく、職業生活の文脈における能力と成果に関する情報を欲していることである。それらには、工場において課される規律、顧客を満足させる必要性、同僚とうまく付き合うことなどが含まれる。多くの国における大学やアメリカの高校に見られるように、融通がきき、個人主義的であり、ほとんど規律化されていない状況は、有意味な情報を多くは伝えない。私は自分の講義で、奇人・変人がはるかに生き残りやすいのは労働者としてよりも学生としてであると述べているが、学生たちはそれは大学教授においても同様であると返答している。
 雇用主に情報をもたらすためのより安価で効率的な方法は、産業革命以前のように、未成年者が直接に働き始めることである。6年間の労働経験の後には、6年間の追加的な学校教育を受けた場合よりも、仕事に関連した能力や他の特質について、はるかに多くを知ることができるだろう。技術的に進展した経済においては、学校で獲得される追加的な知識や情報はあまりに重要であるために、高校・大学教育は近代経済において大規模に拡がったのである。アメリカでは近年において学校と労働の質に対する関心が高まるとともに、学歴主義アプローチの賛同者はだいぶ口をつぐむようになったこともつけ加えるべきであろう。

[pp. 19-20]

 

McDonald (2013) "Societal Foundations for Explaining Fertility: Gender Equity"

 

McDonald, Peter. 2013. "Societal Foundations for Explaining Fertility: Gender Equity." Demographic Research 28: 981-94.

 

 McDonald(2000a)では、ジェンダー公正(equity)とジェンダー平等の違いが議論されており、 ジェンダー公正こそが適用されるべき適切な概念であると述べられている。ジェンダー平等とはわかりやすい概念である。それは男女の教育、雇用、賃金、参加、健康などの領域におけるアウトカムを比較することで単純に測ることができる。ジェンダー平等の概念を用いるならば、オランダは母親のパートタイム就業の比率が高く、男性はフルタイムで働くという点において、ジェンダー平等ではない。出生率が比較的高いオランダやイギリス、オーストラリアのような国において、幼児がいる母親にとってはパートタイム就業はきわめて一般的であり、他方でこれは父親には一般的ではない。平等な就業時間によって定義されるジェンダー不平等は、これらの場合においてはきわめて低い出生率をもたらしていはいない。

 ジェンダー公正は、男女がアウトカムの差異を公正であるか、あるいは著しく不公正ではないと見なしており、またそこにはアウトカムの平等よりもむしろ機会の平等がある限りにおいて、男女のアウトカムの差異があることを許容する。そのためこの概念はより捉えづらく、そのために問題のある概念である。ジェンダー公正とは、アウトカムの厳密な平等についてのものではなく、公正と機会の感覚についてのものなのである。出生に関して言えば、公正の概念はカップルの双方がアウトカムを公正であると感じている限りにおいて、相対的な育児役割が決定されることを許容する。それぞれのカップルが何を公正と考えるかは、カップルや文脈によっても異なるだろう。このばらつきのために、公正の感覚は文化―制度的な文脈によって条件付けられると、ジェンダー公正の概念は批判されてきており、これは的を射ている。実際のところ、これは公正と出生のジェンダー理論において本質的な要素である。というのは、出生の意思決定は単一文化的なものではなく、文化によって異なるものである。しかしながらこの理論は、(すべてではなく)多くの女性が現存する文化―制度的なジェンダー文脈をもはや公正ではないと感じた際に、低い出生率がもたらされると主張する。これらの女性のパートナーもその意思決定を支持するかもしれない。カップルの、とりわけ女性による制度的文脈への反応こそが重要なのである。

 この理論によれば不公正さの感覚は、教育や市場における雇用などの個人志向の制度が、女性に対する新しい機会を開くために生じるものである。しかしながら、もしこれらの新しい機会が、女性が母親になった場合に支援されないのであれば(家族志向の制度のために)、多くの女性はそうでなければ産んでいたはずの子供の数を減らすであろう。

[pp. 982-3]

 

Soomloom アブホイール

 

 

 鈍った体に活を入れるために購入しました。家で仰向けになって腹筋運動するのはあまり楽しくないし、鍛える上でも効率もよくないらしいので、器具を利用してみることにしました。もっと高価なものかと思っていましたが、これは1,000円強とお手頃でした。

 ジムに通っていた頃も、腹筋が筋肉痛になることはあまりなかったのですが、これはかなりキツいですね。腹筋だけではなく、肩も痛いです。膝をつくかどうかや、どこまで体を伸ばすかなどで負荷を調整できるようなので、少しずつ慣らしていきたいと思います。

 

Becker (1985) "Human Capital, Effort, and the Sexual Division of Labor"

Becker, Gary S. 1985. "Human Capital, Effort, and the Sexual Division of Labor." Journal of Labor Economics 3: S33-58. 

 

 やはり経済学的な合理的選択モデルに典型的なように、現状で成立している均衡を出発点として、人々の何らかの合理的な振る舞いによって現象を説明するという特徴が現れていると思いました。ただし、その均衡は先進国で出生率の回復が起きる前の時代背景に基づいていることは、一つ注意したいところです。 

 

  • 特定の人的資本に投資することによる強みは世帯の成員間における明確な分業を促進するものの、それ自体がひとりでに性別分業を説明するわけではない。私は著書の中で、男女は子どもの生産のみならず、育児やおそらく他の活動における貢献に対しても、本質的に異なった比較優位を持つことを示唆した(Becker 1981, pp. 21-25)。そのような生産力における本質的な差異は、活動ごとの性別分業の方向性を決め、またそれによって本質的な差異を強化するような特殊的人的資本の蓄積を起こすかもしれない。
  • 比較優位における本質的な差異が性別分業の重要な原因であるという仮定には、批判も見られた。これらの批判は、むしろ性別分業はもっぱら女性に対する「搾取」によるものであると主張する。しかしながら、本質的優位に基づく性別分業は、搾取が存在することを否定しない。もし男性が分業の決定と、女性に与えられる「生存」量以上の世帯のアウトプットを取り分とすること(競争的な結婚市場であればアウトプットをより平等に分割するであろう)の両者について、完全な権力を有しているとすれば、男性は効率的な分業を課すだろう。というのも、それによって世帯のアウトプットは最大化され、またそのことによって自身の「取り分」も最大化されるためである。とりわけ、女性が育児に対して比較優位を持っている場合に限り、男性は女性にそうした活動を課すであろう。
  • この主張は示唆的であるものの、比較優位の性別による差異が女性に対する搾取と独立であると仮定しているために、結論めいたものではない。搾取された(そして貧しい)人々における非効用の貨幣価値は小さい傾向にあることや、あるいは搾取された人々はその土台を壊す活動への参加を許されていないというだけの理由によって、搾取された女性は不快な活動に対する「優位」を持つのかもしれない。
  • この論文における分析には(そして私の家族についての著書においても)決定的な判断は必要ではない。というのも、差別であれ他の要因であれ、この分析は女性の家庭内の活動における比較優位の起源に依存しないためである。必要なのは、特定の人的資本への投資は、比較優位の効果を強化するということのみである。実際のところ、この分析には初期時点における男女の比較優位の差異が大きいということさえ必要ではない。初期時点におけるわずかな差異が、特定の投資における強化によって、観察される大きな差異へと変換されるのである。

 [pp. S41-42]