『1日外出録ハンチョウ (1)』

 

1日外出録ハンチョウ(1) (ヤングマガジンコミックス)

1日外出録ハンチョウ(1) (ヤングマガジンコミックス)

 

 

 福本作品で食が絡むシーンは、どちらかというと非日常な場面が思い出されます。たとえば、カイジの「キンキンに冷えたビール」や、アカギのふぐ刺しなどで、緊張感の漂う状況で強烈なインパクトを与えているケースです。

 そのため、本作のように終始ほのぼのとしたノリで食のシーンが展開されてゆくというのは、予想外でありシュールでした。ただ、大槻班長が食に臨む姿勢はいたって真剣であり、そこから生み出される「シリアスな笑い」という意味では、黒沢の「アジフライ作戦」と共通するものがあるかもしれません。

6/14(水)神宮球場 ヤクルト―楽天

 

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 5年ぶりに野球観戦してきました。三塁側内野席にて。

 ちなみに最後に観に行ったのは、東京ドームでの巨人―楽天戦で、杉内投手による完全試合未遂の試合でした。

 

 この日の先発はヤクルトが由規投手、楽天が安楽投手(今季一軍初登板)。楽天側はほぼ毎回のように出塁するものの、好機をつかみきれず、3-2で敗戦という結果でした。今季の楽天打線の好調や、前日も12点を上げていたことを考えれば、由規投手の粘りが光った試合という感じでした。

 

Card and Krueger (1994) "Minimum Wages and Employment: A Case Study of the Fast-Food Industry in New Jersey and Pennsylvania"

Card, David. and Alan B. Krueger. 1994. "Minimum Wages and Employment: A Case Study of the Fast-Food Industry in New Jersey and Pennsylvania." American Economic Review 84: 772-93.

 

 最低賃金の教科書的なモデルにおける中心的な予測とは異なるものの、パネルデータを用いて最低賃金の変化による影響を受けた市場・雇用主であるかどうかの比較を行った近年の多くの研究と一致して、ニュージャージー州における最低賃金の上昇はファーストフード・レストランの雇用を減少させたという証拠は見出されない。最低賃金5.05ドルへの影響を受けたニュージャージー州の店舗を、ペンシルベニア州東部の店舗(最低賃金は時給4.25ドルで一定)と比較しても、もともと時給5.00ドル以上の賃金であった(よって法律の変更による影響をほとんど受けない)ニュージャージー州の店舗と比較しても、最低賃金の上昇は雇用を増加させたのである。この結論の頑健性を証明するために、様々な別の特定化の仕方を提示した。いずれの特定化によっても、雇用に対する負の効果は見られなかった。さらに、最低賃金が上昇した後の年において、ニュージャージー州、ペンシルベニア州、ニューヨーク州の間で、ファーストフード産業で働く未成年者の雇用の変化も検証した。結果は同様にして、ニュージャージー州では低賃金労働の雇用が相対的に増加しているというものであった。くわえて、最低賃金の上昇がマクドナルドの直営店の数に対する負の効果があるという証拠も見出されなかった。
 最後に、ニュージャージー州ではペンシルベニア州よりもファーストフードの食事価格が上昇したことが示された。つまり、最低賃金の上昇による負担のほとんどは、消費者に転嫁されたのである。しかしながら、ニュージャージー州の中では、最低賃金の上昇の影響をもっとも受けた店舗において、より価格が上昇したという証拠は得られなかった。全体として、これらの知見は標準的な競争モデル、あるいは雇用主が供給制約に直面しているというモデル(例えば、需要独占や均衡サーチモデル)による説明が困難なものである。

[pp. 791-2]

 

 差分の差分法(difference in differences)を使うかもしれないので、ちょっと勉強しています。教科書的な事例としてよくこの論文が引用されるので、読みました。

 事業所レベルのデータではよく使われるのかもしれませんが、「フルタイム等価雇用」(full-time equivalent employment)というのが従属変数になっています。各事業所において、フルタイム労働者を1とし、パートタイム労働者を0.5とするものです。頑健性の確認のために、後の分析ではパートタイムに対するウェイトを0.4と0.6に変えるという手続きも行われています。

 全体として、頑健性の確認が神経質なほどに行われているという印象ですが、これでも因果効果を測定しているかどうかにはいろいろと批判が行われたというのは驚きます。批判に対するリプライ論文もあるようなので、読んでみたいと思います。

おにぎらず

 



  新しい職場に電子レンジがないので、昼食をどうするか試行錯誤しています。通勤時間が増えたので、あまりかさばるものを持って行きたくないというのもあります。

 

 今日入れてみたもの

  • カルビ焼き+スライスチーズ
  • 鮭ほぐし+マヨネーズ
  • 回鍋肉のような何か

Enders and Tofighi (2007) "Centering Predictor Variables in Cross-Sectional Multilevel Models: A New Look at an Old Issue"

Enders, Craig K. and Davood Tofighi. 2007. "Centering Predictor Variables in Cross-Sectional Multilevel Models: A New Look at an Old Issue." Psychological Methods 12: 121-38.

 

 一読ではそれほど理解できているとは言い難いですが、 これまで真面目に考えたことがないトピックだったので勉強になりました。

 グループ平均へのセンタリングについては、パネルデータ分析の知識を応用できるところも多いです。しかし、「レベル2の変数間の交互作用を検証する上では、全体平均へのセンタリングが適切」など、全体平均を用いる視点は、マルチレベル分析の文脈ならではと言ってよいのかもしれません。

 

 全体平均へのセンタリングと、グループ平均へのセンタリングのどちらを用いるかは、統計的な証拠に基づいて決めることはできず、実質的なリサーチ・クエスチョンに大きく依存する。この問題は明らかに複雑であり、いかなる単一のモデルによっても、実証的なリサーチ・クエスチョンのすべてに対処することはできないかもしれない。実際のところ、単一の研究の中で全体平均へのセンタリングとグループ平均へのセンタリングの両方を用いることは、理にかなっているように思われる。あるリサーチ・クエスチョンには全体平均へのセンタリングが求められ、別のリサーチ・クエスチョンにはグループ平均へのセンタリングによって取り組むのが最善だということもありえる。実証的な問いが全体平均へのセンタリングを要求する場合においても、全体平均へのセンタリングによる推定値には負のバイアスが起きうるため、グループ平均へのセンタリングが傾きの分散に対するもっとも正確な推定値をもたらす可能性があると、Raudenbush and Bryk(2002)は述べている。
 この論文では、実証研究と方法論に従事する人々の両者に役立つことを願って、いくつかの単純な経験則を提示した。この指針は以下の通りである。(a)XとYのLevel1の関連に実証的な関心があるならば、グループ平均へのセンタリングが適切である。(b)Level2の独立変数に主要な関心があり、Level1の共変量を統制したいならば、全体平均へのセンタリングが適切である。(c)Level1とLevel2における異なる影響を検証したいならば、全体平均へのセンタリングとグループ平均へのセンタリングのどちらも用いることができる。(d)クロスレベル交互作用、あるいはLevel1の変数どうしの交互作用を検証するためにはグループ平均へのセンタリングが望ましく、Level2の変数どうしの交互作用を検証するには全体平均へのセンタリングが適切である。

[pp. 135-6]

 

Western and Jackman (1994) "Bayesian Inference for Comparative Research"

Western, Bruce and Simon Jackman. 1994. "Bayesian Inference for Comparative Research." American Political Science Review 88: 412-23.

 

 ベイジアンの考え方を提示する前に言うならば、めったに出くわさないような非常に極端な事例(完全または完全に近い線形的な依存関係)を除けば、共線性は統計的な困難はもたらさない。最小二乗推定量の性質は維持され、統計的な推論は通常と同じく進めることが可能である。それならばなぜ、共線性は問題だと見なされるのだろうか。共線性に伴う困難―過大な標準誤差や回帰係数の予期しない符号―は、係数の符号や分散についての事前の期待(Leamer 1978, 170)から見た際にのみ、問題となるのである。つまりLeamerが述べるように、共線性とは統計的な問題ではなく、多次元的な証拠の解釈の問題なのである(pp. 170-73)。解釈の道具としては、共線性が存在する際には、ある係数と別の係数の情報を最小二乗推定量から区別することはできない。代わりに、最小二乗推定量は係数間の線形結合についての情報をもたらす。サンプル外の情報を用いると、主観的な基準に基づいてサンプルの情報を係数間に割り当てることが可能になる。
[中略]
 まとめれば、比較研究における小規模なデータや共線性がもたらす不十分な証拠は、モデルの特定化にきわめて左右されやすい、不十分で脆弱な推論をもたらす。これは不十分な証拠にもとづいた分析にともなう、自然な結果である。この問題に対する唯一の対処方法は、より多くの情報を導入することである。しかし現実的な問題として、より多くの情報が利用できることは多くはない。データはサンプルに含まれているすべての国からすでに集められている。近年注目を集めている、プーリング時系列国家間分析は、不十分なデータの問題に対する一つの改善法である(e.g., Alvarez, Lange, and Garett 1991; Beck et al. 1993; Radcliff 1992; Swank 1992)。しかし、対象となっているプロセスは時系列のばらつきよりも、国家間のばらつきがはるかに大きいので(e.g., Wallerstein 1989, 482)、時点を追加することが新たな情報をもたらすことは多くはない。たとえば制度は、時点による変化が大きくないものの、国家間では相当のばらつきがある。くわえて、共線性の問題は小規模サンプルの問題とは区別されるものであり、観察数にかかわらずプールされた国家間デザインの分析を困難にさせるものである。しかしながら、追加的な量的情報は通常は手に入らない一方で、比較研究・歴史研究における大規模で実質的に豊富な質的な情報はしばしば存在するものの、分析に適した形では手に入りにくい。ベイジアンの手続きは、比較研究における不十分な量的情報を、質的情報とプールし、より鋭敏な回帰係数を得ようとするものである。

[pp. 414-5]

 FisherとEfronによるこれらの[ベイジアンに批判的な]コメントは、「公正なデータ分析」、つまり事前の情報を用いないデータ分析が可能であるという考え方に立っている。しかしながら現実的には、コーディングの意思決定、変換、有意味な結果として期待される範囲に収まるという意味で、理にかなったように見える結果を得るための説明変数の探索を通じて、ほとんどの分析において事前の情報が入り込んでいる。すべてのデータ分析者は事前の信念を用いているものの、ベイジアンはこれらの事前情報をいくらか明確にして、分析において体系的に統合しているのである。その結果、ベイジアンのアプローチでは、主観性が客観性に通じるものだと認識されている(deFinetti 1974, 1:5-6)。 

[p. 419]

 

Becker (1994) "Human Capital Revisited"

Becker, Gary S. 1994.  "Human Capital Revisited." Human Capital: A Theoretical and Empirical Analysis with Special Reference to Education (3rd Edition). The University of Chicago Press, 15-28.

 

 自分用メモ:Rosenbaum(2001)の立場との共通点・異なる点を整理する。

 

 人的資本分析は、学校教育が主に知識、技能、問題分析の手法をもたらすことで、所得と生産性を向上させると想定する。しかしながら、これとは異なる見方として、学校教育が生産性を改善することを否定し、「学歴主義」を強調するものがある。すなわち、学歴は潜在的な能力、忍耐力、他の貴重な特質についての情報をもたらすものだという見方である。これらの分析の極端なものによれば、たとえば大卒者の所得が高卒者の所得を上回るのは、教育が生産性を向上させるためではなく、より生産的な生徒が大学に行くためであるとされる。
 学歴主義は明らかに存在する。しかし様々な証拠によれば、学歴主義は所得と学校教育にある正の関連のうち、ほとんどを説明していないのである。
 学歴主義に伴う大きな問題は、企業は学業における成功の情報を欲しているのではなく、職業生活の文脈における能力と成果に関する情報を欲していることである。それらには、工場において課される規律、顧客を満足させる必要性、同僚とうまく付き合うことなどが含まれる。多くの国における大学やアメリカの高校に見られるように、融通がきき、個人主義的であり、ほとんど規律化されていない状況は、有意味な情報を多くは伝えない。私は自分の講義で、奇人・変人がはるかに生き残りやすいのは労働者としてよりも学生としてであると述べているが、学生たちはそれは大学教授においても同様であると返答している。
 雇用主に情報をもたらすためのより安価で効率的な方法は、産業革命以前のように、未成年者が直接に働き始めることである。6年間の労働経験の後には、6年間の追加的な学校教育を受けた場合よりも、仕事に関連した能力や他の特質について、はるかに多くを知ることができるだろう。技術的に進展した経済においては、学校で獲得される追加的な知識や情報はあまりに重要であるために、高校・大学教育は近代経済において大規模に拡がったのである。アメリカでは近年において学校と労働の質に対する関心が高まるとともに、学歴主義アプローチの賛同者はだいぶ口をつぐむようになったこともつけ加えるべきであろう。

[pp. 19-20]