学生への個人宛の支援メールがもたらす学習促進効果

 

 https://www.chronicle.com/article/how-one-email-from-you-could/244223

 

 大人数の講義において、なるべく教員の負担を増やすことなく学生の学習を手助けすることに成功した事例の記事です。

 

  • 履修生の数は160~200人。
  • 学生を支援する内容のEメールを個人宛に送ることで、教員が学生を気にかけているというシグナルを送ることができた。
  • 具体的には、学期の最初の試験に不合格であった学生にメールを送った。メールは教員の個人アドレスから、学生一人ひとりに名前を入れて送信した。
  • メールでは、「今回は不合格ではあったものの、まだ最初の試験であるのでこれから学習の習慣を変えれば、成績を上げることができる」ことを説明した。
  • 追加的な支援を行うことはせず、むしろ「なぜ今回の成績が悪かったかは理解できているか」、「既存のリソース、たとえばオフィスアワーや学習グループを利用していたか」を尋ねた。
  • こうしたメールに対する反発、たとえば「教員の教え方が悪い」というものも予想していた。しかし実際にはそうしたものはなく、むしろメールを送った20人のうち半数ほどの学生は、気にかけてくれたことへの感謝と自分の成績への責任を表明した。
  • これらの学生に対して継続的にメールが送られた。具体的に学習習慣が変わったかどうかはわからないものの、これらのグループにおける最初の試験とくらべた際の最終試験の成績の上昇は、クラス全体における上昇よりも大きかった。
  • このEメールは、教室における"nudge"、すなわち強制を伴わない介入によって引き起こされた行動の変化の事例として解釈できる。

 

 感想

  • なるべく負担を増やさないというのがポイントで、既存のリソースを活用できているかに注意を促すのはよさそうですね。
  • 少人数のゼミであらかじめ面識があるのならともかく、大人数の講義の受講者に個人宛のメールを送るのは、日本の文脈だと(私だけ?)少し心理的なハードルが高いようにも思います。
  • 最初の試験で不合格でありメールを送った学生とクラス全体を比較するのではなく、最初の試験で不合格だった学生をランダムに半数に分割して、片方のグループにのみメールを送って効果を見るのがよりよかったのではないでしょうか。
  • nudgeはおそらく定訳がないので、カタカナでナッジとしておくくらいでしょうか。もともとは「肘で小突く」という意味から来ているようですね。

中島岳志(2013)『「リベラル保守」宣言』

 

「リベラル保守」宣言 (新潮文庫)

「リベラル保守」宣言 (新潮文庫)

 

 

 エドマンド・バークの伝統に基づく、保守主義のエッセンスをわかりやすくまとめ、その思想を「原発問題」、「橋本政治」、「大東亜戦争」などの近年の政治・社会問題に適用しています。

 わかりやすさを重視してあえてやっている感じはするのですが、一方的に保守主義の主張を並べているきらいがあります。本書がしばしば批判の対象としている、「(旧来的)左派」の側からのありうる批判が少ないのが、物足りないと感じられる箇所でした。フェミニズムからの批判や、マイノリティの権利保障について著者がどのように考えているのかというのも、気になったところです。

 中間団体やコミュニティの重要性が論じられている箇所を読むと、デュルケームの社会理論には保守思想と呼べるものが色濃くあることがわかりますね。

 

  • 保守のエッセンスとして、「理性万能主義に対する懐疑」がある。
  • 保守思想が疑うのは理性そのものではなく、理性の無謬性である。
  • 個々人の理性が無謬ではない以上、他者の声に耳を傾け、熟議に基づいた漸進的な改革を保守は志向する。
  • 保守は社会の改革を否定するわけではなく、「復古」、「反動」とは異なる。
  • 理性の完成可能性を疑う保守思想にとって、宗教への関心は欠かすことができない。人間の不完全性を意識するためには超越的な存在が指標となるため。
  • トクヴィルはひたすらに福利を追求する態度を抑制するための役割を宗教が担っており、デモクラシーの健全な機能には不可欠と考えた。
  • 保守が貧困問題に対して採るべきアプローチは、日本型雇用や家族主義への遡及ではなく、中間団体の再構築による孤立化した個人への紐帯を作り出すことである。
  • 社会民主主義者の間では、「リベラル・ナショナリズム」の重要性が論じられている。それは、愛国心に基づく国民間の信頼を通じて、国家的再配分の強化とデモクラシーの活性化を目指すものである。

 

森重湧太(2016)『一生使える見やすい資料のデザイン入門』

 

一生使える見やすい資料のデザイン入門

一生使える見やすい資料のデザイン入門

 

 

 アカデミックな場の発表だと、説明文が多くなるので必ずしも参考になる知識ばかりではありませんでしたが、それでも勉強になりました。そもそも今まで、発表資料を見栄えよく作るという意識があまり働いていなかったように思います。おそらく、内容がよければデザインはそれほど重要ではないとか、自分にはデザインのセンスはないという割り切りがどこかに強くあったのでしょう。最低限にしかいじったことのないスライドマスターの機能を、いろいろと試すことになりました。

 

  • 行間や段落前後の余白を調節する
  • パワーポイントのデフォルトになっている箇条書きを多用しすぎない
  • 単語の途中で行が変わると読みづらくなるので、調節する
  • 日本語フォントは「メイリオ」、欧文フォントは「Segoe UI」が読みやすい
  • 太字や下線で強調したい箇所を目立たせる
  • 色は多くの種類を用いすぎず、統一感を持たせる

 

 この辺りは学会発表でも有用でしょうか。授業の資料だと、図や写真、インフォーマルな表現が増えるので、もっと活用できそうな点が多そうです。

 

木下是雄(1981)『理科系の作文技術』

 

理科系の作文技術 (中公新書 (624))

理科系の作文技術 (中公新書 (624))

 

 

 おそらく学部の1,2年次に一度読んでいるはずなのですが、思い出すことができません。いずれにせよ、この手の本は自分である程度に論文を書く経験を積んでから理解できる内容が多いと思いました。主に理科系の論文が念頭に置かれており、例もほとんどが物理系のものですが、実証的な社会科学の分野に共通する内容も多いでしょう。ただし、論文が手書きであった時代を背景としているので、隔世の感がある部分もあります。

 文章におけるパラグラフの役割を解説した4章が、もっとも勉強になりました。英語にくらべると日本語ではパラグラフの構成は厳密でないことが多いものの、著者は日本語においても英語に近い書き方をすべきと主張します。すなわち、1つのパラグラフは原則としてトピック・センテンスではじまり、続く文はトピック・センテンスの展開、あるいは次のパラグラフへの連結であるべきというものです。

 もう一つ非常にためになったのが、文の構造と文章の流れについて解説している5章です。著者によれば、日本語では修飾句・修飾節が前置されることが多いため、主語・述語の前に長い修飾部が入り組んだ、「逆茂木型」の文を書くことが多いと指摘します。これが文を読みづらくしているとして、次のような心得を挙げています。

  • 一つの文の中には、二つ以上の長い前置修飾節は書き込まない。
  • 修飾節の中のことばには修飾節をつけない。
  • 文または節は、なるたけ前とのつながりを浮き立たせるようなことばでかきはじめる。

ランニング3ヶ月

 

 8月の下旬から、毎日ランニングをするようになって3ヶ月が経ちました。10月の中旬に左の膝を痛めてしまい、しばらくは歩くのも厳しい状態の期間がありましたが、それでも毎日5km以上の距離は達成できました。

 最近は体調は悪くないものの、かなり冷え込むようになり、対策が必要になってきました。ジャケット手袋耳あてを装備して走っています。それでも靴の隙間から冷気が入ってきます。マイナス10℃を下回る日だと、足先が凍傷になったかのように痛くなることもありました。

 だいたいいつも同じコースを走るようにしています。正確に時間を記録はしていないのですが、あまりタイムは向上していないような気がします。ただし、毎日続けることをもっとも重視しているので、あまりペースを上げることは意識しないようにするつもりです。

井上達夫(2015)『リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください――井上達夫の法哲学入門』

 

 

 覚悟を決めた以上、書名も志摩氏の提案に従った。いまの日本で胡散臭がられているリベラル派に対しても、リベラリズム清算しようとしている勢力に対しても挑発的な書名だが、何よりも私自身に対して挑発的である。この書名は、「お前の擁護しようとしているリベラリズムは胡散臭いリベラルとどこが違うのか、一般読者に分かるように説明してみよ」という、挑発的な「お題」を私に課している。この「お題」は簡単ではないという意味で、挑発的である。 

 

 あとがきに書かれている通り、朝日新聞へのバッシングに代表されるような「リベラル嫌い」が拡がる一方で、安倍政権の右旋回が持つ危うさを持つ人々も増えている中で、リベラリズムの哲学的基礎を平易に解説するという動機になっているようです。そのため、憲法9条や慰安婦などの時事問題にも触れられてはいるものの、あまり多くの分量は割かれていません。ただその中でも、「良心を理由とした拒否を可能とする徴兵制の導入」など、一見すると驚くような主張も出てきて、provocativeな内容になっています。

 ちなみに本書に出てくる、ロールズの『正義論』の新訳版発売記念のシンポジウムは見に行きました。「政治的リベラリズム」以降のロールズの転向について、井上先生が舌鋒鋭く批判されていましたね。また、同じく登壇者であった盛山和夫先生が、「井上さん、あなたのロールズの格差原理の解釈は間違っている」と噛み付いていたのが非常に記憶に残っています(私の浅い理解では盛山先生の主張が正しいように思えましたが)。

 

  • 不公正な格差の是正や社会保障の充実など、福祉国家的な文脈でのリベラルへの支持は大きく失われていない。信用を失っているのは、エリート主義的で偽善的なリベラルであるとか、欺瞞性を強めている護憲派という部分である。
  • リベラリズムの基本的な価値は自由ではなく正義であり、無理に訳するならば「正義主義」が適切である。
  • リベラリズムには2つの起源があり、「啓蒙」と「寛容」。
  • 「政治的リベラリズム」以降のロールズは、リベラルな正義原理を立憲民主主義の伝統をもつ社会の政治的文化に内在する政治的合意に基盤を求めるようになり、不平等な社会でも、一定程度の「節度」があれば許容できる、という大きな後退を見せている。このように抑圧的な体制と妥協するのは、寛容の負の面である。
  • 異なる「正義の諸構想」(conceptions of justice)が共通して志向すべき「正義概念」(the concept of justice)の規範的実質は「普遍化不可能な差別の排除」である。これが達成できているかどうかは、自分と他者が反転したとしても、受け入れられるかどうかという、「反転可能性テスト」によって検証できる。
  • このテストは自己だけではなく他者にも等しく課される。他者が反転可能性テストを自らに適用しないならば、その他者の視点を尊重する必要はない。
  • 個人が持つ理性の傲慢化を批判するという意味での保守主義には共鳴できるが、歴史や伝統に無批判に信頼を置くのは弊害がある。
  • 歴史問題においては過度の自己否定も過度の自己肯定も間違っている。ドイツは日本よりも自らの戦争責任の追求を立派に行ったという「神話」がある。しかし、ドイツは自らの戦争責任を二重の意味で限定している。第一に、責任の主体をドイツ国民ではなくナチスに求めている。第二に、責任の対象はドイツの侵略戦争の相手ではなく、ユダヤ人に限定している。
  • 専守防衛の範囲なら自衛隊と安保は憲法9条に違反しないと主張する「修正主義的護憲派」は、自らが解釈改憲を行っているのだから、安倍政権の解釈改憲を批判する資格はない。「原理主義護憲派」は、非武装中立を主張しながら、自衛隊と安保の現実を事実上容認しており、より悪い。
  • 憲法の役割は、政権交代が起こり得るような民主的体制、フェアな政治的競争のルールと、民主政の下では自らを守れないような被差別少数者の人権保障のためのルールを定めることである。安全保障は通常の民主的討議の場で行われるのが望ましく、そのために憲法9条は「改正」ではなく、「削除」するべきである。
  • 天皇制は主権者国民が自らのアイデンティティのために皇族を奴隷化するという意味で、最後に残された奴隷制であり、廃止すべきである。
  • かつて東大法学部には、「和魂洋才」ならぬ「文魂法才」、すなわち心は文学部だけれど、食えないから法学部に行くことを意味する言葉があった。また法学部では優が3分の2以上だと大学院をスキップしていきなり助手にしてもらえた。これは優秀な学生を官庁に独占させず、研究者としてリクルートするための制度であった。
  • 論理実証主義(logical positivism)は、検証可能な命題、すなわち真であることが証明できる命題のみを云う意味な命題とする検証主義(verificationism)を主張するものの、ポパーはこれを斥ける。なぜならば、神学・形而上学的命題や価値判断が認識的意味を欠くだけではなく、自然科学の法則命題まで無意味になってしまうため。
  • ポパーは検証主義に代えて、反証主義(falsificationism)を提唱する。これは、誰のいかなる主張も可謬性を免れず、徹底的に批判される必要があり、批判的テストに耐えることで暫定的に受容されるだけだという立場につながる。 
  • 可謬主義が想定する客観的なるものは、自分や自分の崇拝者を含めて、誰もそれが何であるかを確知しているとは標榜できない何か、いわば永遠の未知数Xである。
  • 自己の価値判断に対する他者の批判の可能性を閉ざす点で、価値相対主義は、独断的絶対主義と変わらない。
  • 「善き生の構想」は人それぞれであるため、正義の原理はどれか特定の「善き生の構想」に依存することなく正当化されなければいけない。これが善に対する正義の独立性の要請である。また、このように正当化された正義の原理が「善き背生の構想」と衝突する場合には、正義の原理が「善き生の構想」を制約する。これが制約性の要請である。
  • 初期のマイケル・サンデルにおけるコミュニタリアニズムは、リベラルな反卓越主義を批判する卓越主義の現代版である。サンデルによれば、一つの政治共同体には、歴史や伝統の中に埋め込まれたその共同体固有の「共有された善き生の構想」、すなわち「共通善」(the common good)があり、個人は自分が属する共同体の共通善を自己のアイデンティティの基盤にしている。
  • サンデルが、善く生きることは趣味の問題ではなく、倫理的自己陶冶への個人の責任問題であると主張していることは、理解・共感できる。しかし、善く生きることに責任を持つ自己解釈的存在という人間感は、共同体論の「共通善の政治」ではなく、むしろリベラルな反卓越主義を要請する。
  • 1980年代までの「保守」対「革新」という思想的対立軸の下では、日本の思想界においてリベラリズムがまともな位置を占めたことはなかった。リベラリズムはしばしば価値相対主義と混同されるものの、はっきりと違う。
  • 反転可能性による批判から含意されるのは、正義とは、自分の独断や自分の利益を合理化するイデオロギーではなく、ある意味で、自分を批判するとか、自分の首をも占める理念である。そうした意味での正義がリベラリズムの基底にはある。
  • 強盗による脅迫と、法による強制は何が違うのか。正義を企てる法は、「法の指図は正義にかなった理由でジャスティファイできている」ということの承認を、服従する人たちに求めている。
  • リベラルな社会では、「善き生の構想」だけではなく、「正義の構想」自体が多元的に分裂している。しかし、分配的正義の構想は税制に関わってくるため、争いがあるにもかかわらず集合的決定をせざるを得ない。社会の政治的決定と、その産物としての法が、自分の正義の構想から見たら間違っているにもかかわらず、公共的決定の産物として尊重することがいかにして可能なのか。ソクラテスの悪法問題はこのことを問うていた。
  • どの正義の構想を採るにせよ、正義概念が共通の制約になる。正義概念を満たしている限りにおいて、法は「正当性」(rightness)を持たなくとも、「正統性」(legitimacy)を持ち得る。正統性とは、負けたほうから見て、間違ってはいるけれど、自分たちが次の闘争で勝てるまでは尊重できるという法のことである。勝者は自らが敗者の地位に置かれたとしても受容し得るような理由によって、自己の敗者に対する要求が正当化できるか否かを常に自己批判的に吟味せよという要請が正統性保障の指針になる。
  • 「政治的リベラリズム」におけるロールズは、リベラルな社会では、宗教的・哲学的な立場が多元的に分裂しているから、論争的な哲学的立場に依拠しないと受け入れられないような正義原理ではダメだという。そうではなく、「重合的合意」(overlapping consensus)、すなわちどの哲学的・宗教的な教説からも、理由は違うけれど、結論だけは共有できるという、「同床異夢」的なものに基づくという。しかし、立憲民主主義の伝統を持つ社会にしか、こういうコンセンサスは成り立たない。そのためロールズは、「階層社会でも節度ある階層社会ならいい」という主張にまで行き着く。
  • これに対してサンデルは、政治的な価値がきわめて分裂しているゆえに、論争的な哲学的問題にコミットし、自分のモラルコミットメントを正当化しなければいけないと述べる。そのため、ロールズの言う「コンセンサス」はサンデルにとっては、まやかしである。
  • 後期ロールズの「政治的リベラリズム」を批判する上で、サンデルは南北戦争の例を挙げる。正義原理の正当化根拠を巡る哲学的・道徳的論争を回避して「重合的合意」に訴えようとすることで、奴隷制に関してこうした合意がまだ成立していなかった南北戦争直前の時代であれば、奴隷制の廃止を主張したリンカーンではなく、奴隷州と自由州とが共存のために妥協すべきとういダグラスの立場を、ロールズは支持することになるだろうとサンデルは述べる。
  • 英米圏のリベラルな哲学者が、グローバルジャスティスの問題になると途端に消極的になることがある。「コスモポリタニズム」というのが正しいかどうかは別にして、ナショナルアイデンティティは重視しつつも、それを超える規範的な制約はやはりあると考えるべき。
  • 中世において巨大な主権国家が誕生した際に、その制約として人権が生まれたという説明がある。これは間違ってはいないものの、事柄の反面にすぎない。そもそも主権国家をなぜつくったのかというと、教会をはじめとした自立的な社会的諸権力が獰猛であったため。ホッブズにとって、「万人の万人に対する闘争状態」とは、理論的なフィクションではなく、彼が生きた時代の現実であった。個人の基本的な人権を擁護するためには、中間的な社会的諸権力よりも強力な権力が必要であったため、主権国家はつくられた。こう考えると、主権と人権は対立するというよりは、人権が主権の正当化根拠だから、人権による主権の制約というのは、外在的な制約ではなく、主権そのものに内在する制約であると言える。
  • 国連やEU、国際的なNGOなどの国家を超えた組織が様々にできている。しかし、これらの組織は人権保障において国家以上によいパフォーマンスを発揮することは考えられない。なぜならば、国家には何かがあったときに逃げも隠れもできないという、「答責性」(accountability)があるため。本来、アカウンタビリティとは、自分たちの行動によってコストを転嫁されたり害を与えられたりする人たち対して負わなければいけないものであるものの、たとえば国際的な環境保護団体を挙げると、その行動によって負の帰結をもたらされうる国の国民には責任をとらなくてもよくなってしまっている。

 

櫻田大造(2011)『大学教員 採用・人事のカラクリ』

 

大学教員 採用・人事のカラクリ (中公新書ラクレ)

大学教員 採用・人事のカラクリ (中公新書ラクレ)

 

 

 求職側の経験談やアドバイスはインターネット上で多く見つかるのですが、採用側のプロセスやロジックについてある程度に情報をまとめてくれているものは相対的に少ないので、ありがたいです。あと、ネット上の情報だとどうしても極端なものであったり、あるいは自分が関心のあるものであったりを摂取しやすくなるので、書籍の形にまとまったものに触れるのも大事だと思いました。

 

  • 私学は国公立に比べるとST比が悪いので、ポストを1年以上空けておく余裕のある大学は少なく、補充人事は早めに行われる傾向がある。
  • 2011年4月1日の文科省の指導により、全国の大学・短大は経営情報や入試関連情報の公開が義務付けられたので、定員がどの程度満たされているのかなど調べやすくなった。
  • JREC-INでは年齢による「足切り」は禁止されているが、公募の職階によって採用側の希望が推定できる。一般的に助教・専任講師ならば20代後半~30代前半、准教授だと30代前半~50歳くらい、教授だと30代半ば~60歳くらい。
  • 国公立大学のほうが、私学によりも年齢による職階にシビアである。なぜなら、学部・学科・研究室などの単位で、各職階ごとの定員が決まっているため。
  • JREC-INの2008~2010年度のデータでは、8月の公募数がもっとも多い。
  • 公募が出たら、採用人事委員会に誰が入りそうかを、応募前に調べておくとよい。

 

 他にも様々な世代・分野における就職の成功談・失敗談が網羅されており、単純に読み物としても面白かったです。自分が受け取ったメッセージとしては、就職先としての大学教員はギャンブル的な要素が高まっており、コネなどを含めた運の要素も大いにあるものの、地道に努力をしていれば長い目で見た際には報われる可能性は高い、というところでしょうか。