Cal Newport (2016) "Deep Work: Rules for Focused Success in a Distracted World"

 

Deep Work: Rules for Focused Success in a Distracted World

Deep Work: Rules for Focused Success in a Distracted World

 

 

 邦訳も出ているようですが、原著で読んでみました。著者はコンピュータ科学分野の先生で、まだ30代ながら多数の論文と複数の著書を出版しているという、非常にprolificな研究者のようです。

 著者の言う「深い仕事」(deep work)とは、知識労働者が従事する、認知的な負荷が大きくかつ生み出す価値が高いような仕事のことを指しています。今日の世界では、deep workの価値がますます高まっているにもかかわらず、テクノロジーの発達がもたらすdistractionによって、むしろ「浅い仕事」(shallow work)に知識労働者がどんどん時間を奪われてしまっているというのが、本書の骨子になっています。

 たとえば、著者が指摘するshallow workの典型例がeメールであり、多くの知識労働者が少なからぬ仕事時間をその確認・処理に費やしていることや、コンサルティング業務のような迅速なメール処理が非常に重要と思われている分野でさえ、すぐに返信をしなくても実際のところはそれほど問題が起きないことを示す実験結果の紹介がされます。

 後半は、いかにしてshallow workを減らし、deep workに打ち込める時間を増やすかに関するルールや実践が内容となっており、著者が重視しているのは時間のスケジューリングと、テクノロジーとのつきあい方です。著者はSNSは一切使用せず、ニュースもウェブではなく紙の新聞でチェックするという徹底ぶりを見せています。さらに本書で紹介される事例では、eメールアドレスを一切公開せず、代わりに郵便物が届く住所のみを公開するという、隠遁的(monastic)な大学教授までいるとのことです。デジタル技術とのつきあい方については、Digital Minimalismという近著でより掘り下げられているようです。

 個人的にもっとも興味深かったのは、知識労働者のdeep workを、職人芸(craftsmanship)に類比させている箇所でした。熟練した職人が、啓蒙主義以降の世界においてもなぜ自らの仕事に神聖さ(sacredness)を見出すことができるのかを論じた後に、知識労働者も自らの仕事から同様の意味を感じられると主張されます。たとえば、かつて馬車の車輪工が一つ一つの木材が異なることに個性を感じて仕事の対象と深い関係を築いたように、コンピュタープログラマーが美しいコードに芸術性を感じることがあるという事例を挙げ、高度な技能が要求される仕事には同様の深い意味を感じることができるということです。また、ここでいう意味とは、何か新たな意味を作り上げるということではなく、むしろ自らを磨くことによってすでに存在する意味を、無意味なものから区別することであり、このことによって職人の精神では個人化されたニヒリズムを避けることができると強調されています。

 

古川武士(2013)『「やめる」習慣』

 

「やめる」習慣

「やめる」習慣

 

 

 自分の時間の使い方を振り返ると、やらなくてもよいことに非常に多くの時間を割いてきているわけですね。「あのことに費やした時間をすべて仕事に割り振っていたら、何本論文が書けていただろうか…」と考えることも頻繁にあります。

 まあ、頭ではわかっていてもなかなか実行に移すのは難しいわけですね。自制心のなさ(よくないと知りつつ行為する)については、アリストテレスが2000年以上前に「アクラシア」という言葉で述べているほど根深い問題ですね。本書では、何かを決意した時とそれを破る時ではあたかもまったく違う人格になっているかのようなことを、「別人問題」という名前で紹介しており、なかなか卓抜な表現であるように思います。

 最近は、いかにしてやらなくてもよいことを避けるか、特に気を散らすきっかけ(distraction)をいかに避けるかが、あらためて自分の中でホットな課題になっており、関連する内容を勉強しています。自分にとっては明らかなdistractionになりそうなので、もともとFacebookTwitterのアカウントは持たないようにしてますが、それでもインターネットの時間の使い方に関しては反省すべき点があまりに多いですね。

 本書は実践的な志向の強い本で、習慣化のためのスケジュールの立て方であったり、モニタリングの仕方であったりなどが指南されており、自分が何となく考えてきたことと整合する点も多かったです。ただ、結局のところは行動に移せるかという覚悟の問題だなと思いました。やらなくてもよいことを決めるというのは、ピーター・ドラッカーがマネジメントの世界で言ったところの「劣後順位」(posteriority)という考え方も関係してきそうですが、ドラッカーも劣後順位をつけるのは、分析よりも勇気の問題であると述べているようですね。

 本書の読了後には、もっと学術的な内容が含まれている、Deep Workという本を読み始めています。

 

Lareau (2012) "Using the Terms Hypothesis and Variable for Qualitative Work: A Critical Reflection"

 

Lareau, Annette. 2012. "Using the Terms Hypothesis and Variable for Qualitative Work: A Critical Reflection." Journal of Marriage and Family 74(4): 671-77.

 

 Goertz & Mahoneyと同様に、Lareauも定量的・定性的研究という「2つの文化」の存在を支持する立場であるようです。ただし、Goertz & Mahoneyはどちらの研究においても、すでに因果に関わる何らかの仮説があることを前提にしているように見えるのに対して、Lareauは研究のデザインやプロセスにおける2つの文化の違いを強調し、「仮説」、「変数」という用語を定性的研究で使うことに対して疑問を述べている点が特徴的です。

 さらに、定性的研究の中でも参与観察なのか、インタビューのみでデータを集めるのか、インタビューではどの程度の人数を対象とするのかという区別を提示しており、勉強になりました。

 

  • 仮説とは、研究が始まる前に作られるものだと多くの研究者がみなしている;さらに理想的には、研究結果によって仮説を変えるべきではないと考えられている
  • 変数とは一般的に、明確に定義されかつ測定が容易であるような相互に排他的な値を持つものとみなされる
  • つまるところ、定性的研究の目標の一つは出来事の意味やそれらの相互連関の性質を示すことである;出来事の頻度ではなく、人々ができごとをどのように解釈しているかを知りたいのである
  • 定量的研究では、バイアスを減らすために構造化された質問においてばらつきを制限しようとするものの、エスノグラファーにとっては人々が研究者に対してとる異なる反応は不可避であり、かつより理解を進めるものであるとみなす
  • 定量的研究者は、変数間の関連は実証的に示されない限りは独立したものとみなすものの、定性的研究者は社会生活の要素が相互に連関したものとみなす
  • 定性的研究では、「仮説」の提示よりも「リサーチ・クエスチョン」の洗練化、「変数」よりも「日常生活における社会的プロセス」を研究すべきである
  • リサーチ・クエスチョンは特定の変数に限定されるものではなく、いくらかオープン・エンドなものであるべきである
  • 定量的研究と同様に、定性的研究においても反実仮想を考えたり、不利な証拠を探したりすることは役立つ;Unequal Childhoods(Lareau 2011)においては、もし階級というものが子育てにおいて重要でなければ、何が見出されるだろうかということをしばしば自らに問うた;言い方を変えれば、自らのデータを間違って解釈している可能性を考えたのである
  • 定性的研究者は、リサーチ・クエスチョンを研究のプロセスの中で発現させ、成長させ、発展させ、変化させるべきなのである
  • 定性的なデータ収集の方法として、参与観察によるものとインタビューのみによるものとの区別は重要である
  • 150人や200人を対象とした大規模のインタビュー調査を行う研究が増えているものの、こうした研究では筆頭研究者のデータ収集への関与が犠牲になってしまうことが多い
  • 大規模のインタビューではしばしば回答の意味よりも回答の頻度に焦点があてられており、このことは定性的研究の価値を損なうものである
  • 参与観察とインタビュー調査は非常に異なったアプローチである;インタビュー調査は人々の経験の意味を理解することに焦点をあてるものの、「エスノグラフィー的」と呼ぶのは誤りであり、参与観察における豊富で自然な観察を詳細に与えてくれるものではない
  • インタビューはまた、対象者が研究者の望んでいることを答えてしまうという社会的な望ましさ(social desirability)の問題によって、不正確なデータになることへの脆弱性がある
  • エスノグラフィーの目的は、日常生活に関する豊富できめの細かい分析を行い、理論の発展をもたらすことである;この目的のためには50以上のインタビューを行う必要はなく、そもそも50以上のインタビューの結果を提示するのは困難である
  • 定性的研究者の中には、仮説と変数という用語によって研究がより明瞭になると考える人々もいる;しかしこれらの用語によってエスノグラフィー研究が定量的研究の規範に同化してしまうという懸念がある;それは時には、科学研究の非常に狭い定義に社会科学が包囲されてしまっているかのように見えるのである

GeChic On-Lap 1305H モバイル液晶モニター

 

 

 デュアルディスプレイ用に買いました。文献をPDFファイルで開きながらまとめるときや、複数のデータを開くときなどにノートPCの画面だけだとやりづらいことが多いので。今のオフィスがあまり広くないので、軽くて片付けがしやすいのは魅力的です。

 AmazonのレビューにHDMIケーブルがモニタ側に奥まで差し込みづらいというのがあり、最初のうちは自分も感じたのですが、使っているうちにスムーズに差し込めるようになったような気がします。

 

松井孝嘉(2018)『スマホ首病が日本を滅ぼす――首を治せば生まれ変われる』

 

 

 原因不明の心身不調である不定愁訴の少なからずが、首のこりから来ており、「頚性神経症候群」という新しい病名を提唱している先生のようです。同様の書籍を何冊も出されているようですが、本書では特にスマホの普及によってこの症状が若い世代を中心に深刻化していることが主張されています。冒頭にある30項目の問診票では、自分も該当する項目が10近くあり、もっと首の状態に注意を払わないとまずいなと自覚しました。

 ただし、本書の内容は結構あやしいところもあり、うつ病や自殺と結びつけている議論はやや安易すぎるように思いますし、また後半は著者自身の運営するクリニックの宣伝色がかなり濃くなっていて辟易しました。正直なところ、真ん中あたりの章を立ち読みすれば十分でしたが、本は表紙を見たときや手に取ったときに感じる勢いが大事だと思っているので(ときめき!)、こういう経験も致し方ありません。

 

想田和弘(2011)『なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか』

 

なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか (講談社現代新書)

なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか (講談社現代新書)

 

 

 一時期、渋谷のミニシアターによく通っている時期があり、その頃に想田監督の『選挙』『精神』を観ました(ライズXシネマライズともに閉館したのですねえ)。その後の作品は観ていないのですが、先日読んだ吉見先生の本で紹介されていた『ザ・ビッグハウス』は観てみたいなと思いました。

 本書では、『選挙』、『精神』と、その次の作品である『Peace』を題材に、想田監督の提唱する「観察映画」の手法について入門的に解説されています。

 客観的な真実・現実の存在を否定し、また撮影前にあらかじめ台本をつくらずに、撮影者の参与観察によって発見に基づいて作られたドキュメンタリーというようにまとめられます。特に台本を作らないということに関しては、テレビの番組制作における「わかりやすさ至上主義」、「視聴者は理解できないという無信頼」が批判の的に挙げられています。

 ただし、ドキュメンタリーのフィクション性を強調する森達也に代表されるような主張とは異なり、やはり実在する人物や組織であるからこそ観客が興味を持つという、現実と虚構の間の微妙なバランスの上に成り立つというのが想田監督の立場のようです。

 

2019年4月のランニング記録

 

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2019年4月のランニング集計結果

 

 走った日数は16日、総距離は115.61kmでした。

 2週目が、花粉症で弱ったところに風邪にやられてしまったようで、まったく走れなかったのが残念な結果です。その他にも、遅く帰った日など、ちょくちょくサボってしまったのが反省点ですね。

 4月は1回あたり7~8kmを目安に走っていたのですが、疲れが翌日に残ることも多くてちょっと負担が大きいかなと思ったので、5月に入ってからは5~6kmに減らしています。無理しすぎずに継続することが当初の目標だったので、令和になったことであらためて初心に立ち戻ってみます。