橘玲(2018)『朝日ぎらい――よりよい世界のためのリベラル進化論』

 

 

これから述べるように、世界でも日本でもひとびとの価値観は確実にリベラルになっている。リベラルが退潮しているように見えるのは、朝日新聞に代表される日本の「リベラリズム戦後民主主義)」が、グローバルスタンダードのリベラリズムから脱落しつつあるからだ。

 

 戦後の「朝日」的なリベラルはずっと、「愛国=軍国主義」を批判してきた。その結果、「愛国」は右翼の独占物になり、リベラルは「愛国ではないもの」すなわち、「反日」のレッテルを貼られることになった。ここに「朝日ぎらい」の大きな理由があることは間違いない。

 

  • 以前に読んだ井上達夫先生の本がベストセラーになっているように、関心の高まっているテーマなのかなと思います。
  • 進化心理学脳科学の安易な適用が気になるところが多かったですが、リベラルが退潮している(ように見える)ことについての大枠の説明に関しては納得できるところが多かったです。アメリカのトランプ支持やヨーロッパにおける極右政党の台頭との共通点については考えたことがありましたが、日本独特の問題として、リベラル派と日本的雇用による既得権・身分制の結びつきが、若年世代からの支持を失わせている理由であるという分析は自分にとって新しい視点でした。これがリベラルが標榜する普遍的な価値に対するダブルスタンダードになっているということですね。
  • 田中愛治先生たちの調査によって示されている、若年世代における保守とリベラルの位置づけの逆転というのは、単純な分析ながら非常に興味深い知見ですね。ただし、その解釈として本書の著者の強調する世代間の利害対立のみで説明するのは、もう少し詳細な分析が必要であるように思います(既得権益や世代間利害対立の認識が強い若年層における政党イデオロギーの位置づけなど)。
  • 著者自身が非アカデミックな領域で仕事をしてきているからか、近年の保守思想・言説がアカデミックな世界の外で主にリードされてきたことについて、何度か繰り返し記述されていますね。こうした背景と、日本のネトウヨアメリカのトランプ支持に見られるような、エリートに見捨てられたと感じている人々のアイデンティティ問題が親和的であったことが論じられています。アマルティア・センによる、「アイデンティティの単一帰属が幻想である」ことへの批判というのは知らなかったので、ちょっと勉強してみたいところです。

 

Andersen and van de Werfhorst(2010)教育と職業のマッチングにおける技能の透明性と労働市場のコーディネーションの役割

 

Andersen, Robert and Herman G. van de Werfhorst. 2010. "Education and Occupational Status in 14 Countries: The Role of Educational Institutions and Labour Market Coordination." British Journal of Sociology 61(2): 336-55.

 

 強固な職業教育を要素とし、また大規模なトラッキング、トラックへの早期の選抜など高度に階層化された教育システムに特徴づけられる国々は、あまり職業訓練が行われず非階層的な国々にくらべて、教育と職業の強い関係が見られる傾向にある(Allmendinger 1989; Brauns, Steinmann, Kieffer and Marry 1999; Kerckhoff 2001; Shavit and Müller 1998; Scherer 2005)。この知見の理論的な解釈は単純である。つまり、教育システムがより階層化され、より職業に特有なものであると、潜在的な労働者の資格はより透明性の高いものとなり、それゆえ教育と職業のマッチングもより強くなるのである。[338]

 

 つまり、教育と職業のマッチングにとって重要なのは、必ずしも高い水準の階層化ではなく、むしろ正しい訓練が与えられていることである。この観点からすれば、労働市場の特徴、とりわけ雇用関係のコーディネーションが重要な因果的役割を担っているかどうか(Soskice 1994; Culpepper and Finegold 1999; Hall and Soskice 2001; Visser and Hemerijick 1997; Breen 2005)を評価することは重要である。少なくとも、教育システムの特徴の重要性にのみ焦点を当てるだけでは、全体像を描くことにはならないだろう。[339] 

Miller and Rosenbaum(1997)ホッブズ的な世界における雇用主の情報利用と採用行動

 

Miller, Shazia Rafiullah and James E. Rosenbaum 1997. "Hiring in a Hobbesian World: Social Infrastructure and Employers’ Use of Information." Work and Occupations 24(4): 498-523.

 

 Rosenbaum(2001)の一部の章にもなっている研究ですね。

 われわれの得た知見は、社会的基盤が情報を伝える手段となっているだけではなく、雇用主が情報を認識する方法に、とりわけその情報を信頼するかどうかに影響することを示している。特定の経済的な意思決定においては、情報は信頼できる場合にのみ用いられ、これらの場合においては社会的基盤はそうした信頼が存在するかどうかに影響しうる。情報が伝わるメカニズムに疑念が生じた場合には、その情報は用いられないのである。
 他者から得られた情報を人々が用いる状況を問うにあたり、トマス・ホッブズが考えたのと類似した問題を検討する。ホッブズは競争社会の文脈において、情報を提供する人々の利己的な動機や利益相反によって情報の価値が汚染されている(tainted)可能性がある場合に、人々がどのようにして協力が可能であるかを問うた。もしすべての情報が汚染されているとみなされれば、人々は外部からの情報を避け、自ら生み出した情報のみを頼るだろう。人的資本理論・シグナリング理論は、雇用主が用いたい基準については正しいかもしれないが、どの情報が実際に信頼できると雇用主が感じるかをホッブズは問うたのである。もし雇用主が自らをホッブズ的な状況にいるとみなせば、雇用主が信頼できる経路から情報を受け取る場合にのみ労働市場は働くであろう。[499-500]

 

 常識的に言われるように、若年労働市場の問題は雇用主が自らにとって好ましい技能を持つ労働者を得るのが困難な際に生じる。しかしながら、われわれの知見によれば問題であるのはシグナリング理論が主張するもの、つまり雇用主が十分な情報を有しないことではない。むしろ、雇用主は信頼可能で有用な情報を特定できないことに困難を感じているのである。雇用主は多くの情報に対してアクセスを有しているものの、関係を持たない人々からの情報の信頼性と有用性に疑念を持っているのである。[516]

 

Weiss(1995)人的資本モデル・選別モデルの共通点と相違点

 

Weiss, Andrew. 1995. "Human Capital vs. Signalling Explanations of Wages." Journal of Economic Perspectives 9(4): 133-154. 

 

 この論文における「選別」(sorting)とは、シグナリングとスクリーニングの両者を含んだもの。

 人的資本による解釈と選別による解釈の間の違いについてはいくらかの誤解が存在してきたので、選別モデルは人的資本モデルの特徴のすべてを包含しているという点は再び強調するに値する。特に、どちらのアプローチも学校における学習が存在することを許容する(人的資本モデルでは必要となる)。どちらのアプローチにおいても、利潤の最大化を目的とする企業は効用最大化を目的とする労働者と競合し、一連の観察される特徴を所与とした際に労働者が生涯において得る対価の期待値は、そうした特徴を有する中からランダムに選ばれた労働者が持つ生涯の生産性の期待値に一致する。人的資本モデル・選別モデルのどちらにおいても、個人は教育によるコストが限界的なリターンに一致するように就学年数を選択すると仮定される。両モデルが異なるのは、選別モデルでは企業からは観察されない特性が学校教育と相関を持つことが許容されるという点においてである。
 政策志向の研究の多くが、企業から観察される特性のすべてを調整することによって教育のリターンを計算することに打ち込んできた。政策が形成される際に、これらの私的リターンの推定値はしばしば社会的リターンの推定値として用いられてきた。政策的な観点からすれば、人的資本モデルと選別モデルの重要な違いは、選別モデルにおいては企業から観察される特性をすべて考慮した後にも、教育の係数は生産性に対する就学・経験の効果としてはバイアスのかかった測定になっているかもしれないということである。選別モデル的な考察が重要である場合に、得られた係数が適切な推定値となるのは教育の私的リターンに対してのみであり、社会的リターンに対してではない。[136]

 

Bills(2003)社会学者と労働経済学者の持つ異なる世界観

 

Bills, David B. 2003. "Credentials, Signals, and Screens: Examining the Relationship between Schooling and Job Assignment." Review of Educational Research 73: 441-469. 

 

 学校教育がどのように仕事の配置と関連しているかというテーマには、多くの異なったものがみられる。ありうる1つの分類は、社会学的な説明に経済学的な説明を対置させることである。経済学と社会学の共通の基盤を見出そうとする試みが行われてきたにもかかわらず(Barron and Hannan 1994; Swedberg 1997)、社会学者と労働経済学者は異なる世界の見方をしているという事実は残り続けている。経済学者は生産性と賃金を常に考えており、かつこれらを必ずしも異なるものとして捉えない。社会学者は職業、仕事、開放的な労働市場に対する制約に関心を持っている(Granovetter 1998)。経済学者は学校教育による社会的収益率・私的収益率の区別を強調するものの、これは社会学者がほとんど関心を寄せないものである。Rosenbaum and Binder(1997, p.68)は、「経済学者と社会学者は雇用主の要求について対立する見方を提示している」と、率直に観察している。[443] 

 

Baumeister and Tierney (2011) Willpower: Rediscovering the Greatest Human Strength

 

Baumeister, Roy and John Tierney. 2011. Willpower: Rediscovering the Greatest Human Strength. Penguin Books. 

Willpower: Rediscovering Our Greatest Strength

Willpower: Rediscovering Our Greatest Strength

 

 

 "ego depletion"をキーワードとして、心理学の様々な知見を一般向けにまとめた本になっています。日本では『意志力の科学』というタイトルで翻訳されているようです。

 副題には、"greatest human strength"とありますが、内容としてはむしろ意志力を信用しすぎることの危険性が強調されており、意志力を枯渇させないようなテクニックであったり、意志力に頼らなくともうまく物事を処理できるようなルーティンの確立の仕方であったりが紹介されます。

 

  • "ego depletion"→1日あるいは一定期間における意志力は限られている
  • グルコースと意志力は強く関連している
  • 意志力は訓練によって鍛えることができる
  • "Zeigarnik effect"→終了していないタスクが頭に残り続けることで、意志力を減退させること
  • 鏡が置かれた実験室では参加者はより集中して作業に従事する→自己意識(self-awareness)が働く状況では人々はより強い意志力を発揮する傾向にある
  • アメリカの子どもは日本や韓国の子どもよりも高い自尊心を示すにもかかわらず、学力は劣る傾向にある
    • 学業成績→自尊心という因果関係はあっても、自尊心→学業成績という関係は見出せない
    • アジア系の子どもの高い学力は、自制心を求める子育ての結果であると考えられる
  • 信仰心を持つ人々がそうでない人々よりも長生きする傾向にあるのは、自制心をより強く持ち、健康な習慣と結びついているため
  • マシュマロ実験において自制心を働かせることのできた幼児は、マシュマロが目に入らないように自分の気を散らすという手段を用いていた
  • 日々のタスクと長期の目標の関連が明確であり、かつ小さな報酬が頻繁にあるほど、目標は達成されやすい傾向にある

 

大塚(1955/2000)経済史における諸概念・諸理論の性質について

 

大塚久雄,1955/2000,『共同体の基礎理論』岩波書店. 

 

 ところで、具体的な論述に入るに先立ち、この講義の性質について一言注意を促しておくことにしたい。この講義では、いまも述べたように、経済史の研究および叙述に必要な基礎的諸概念および理論の概要を説明することになるであろうが、その際われわれは決してあの《Prokrustesbett》のあやまちを犯さないよう十分に注意したいと思うのである。たとえば「適用」という語などが時にわれわれにそうした錯覚をおこさせることであるが、この講義で説明される諸概念や諸理論をいわば「鋳型」のようなものと考え、総ての史実を何でもかんでもその中に流しこんでしまうようなやり方を、われわれはお互いに固く戒めたいと思うのである。それは、この講義の内容が未熟であって多くの訂正の必要が想定されるということだけではない。理由は一層深く基本的なものである。というのは、われわれの用いる諸概念や理論はそもそも限られた史実を基盤として構想されたものであり、つねに何らかの程度で仮説(Hypothesis)に過ぎず、したがってまた当然に一層豊富な史実に基づいて絶えず検討しなおされ、訂正あるいは補充され、再構成されねばならない。[1-2] 

 

 いま一度比喩をもっていってみれば、地図は現実の地形にもとづいて作られたのであって、現実の地形が地図に従って作られたのではない。もし両者の間にくいちがいが見出されるならば、地図の読み方が正確である限り、もちろん訂正されねばならぬのはつねに地図のほうであって、地形ではないはずである。この講義で説明される基礎的諸概念や理論は、いわば諸君が史実の森に分け入ろうとするばあいに携行すべき、そのような地図にすぎない。そうした意味合いでこの講義を聞いてもらいたいと思う。[3]