本田由紀『「家庭教育」の隘路―子育てに強迫される母親たち』

「家庭教育」の隘路―子育てに強迫される母親たち

「家庭教育」の隘路―子育てに強迫される母親たち

小学校高学年の子どもを持つ母親へのインタビューと、内閣府が行った若者とその母親への質問紙調査を基に書かれた本。

本書の問題関心は、昨今の学力低下や青少年をめぐる凶悪事件の原因を「家庭教育」に求める風潮が高まり、母親たちは子育てをめぐる葛藤に悩まされているというところにある。

「家庭の教育力が低下した」としばしば言われる。確かに給食費の未納問題や、親殺し・子殺しなどのマスコミの報道を聞くと、そう思う人もいるかもしれない。

しかし、昔の日本では決して多くの親が家庭の教育に熱心であったわけではない。かつては雇用労働者がまだ少なく、またきょうだいの数も多かった。そのために両親は日中働いていて、子どもたちは年上のきょうだいや地域の大人たちに面倒を見てもらうという形が珍しくなかった。まさに「親はなくとも子は育つ」の世界だったのである。

それが、地域社会の衰退や専業主婦の増加により、だんだんと教育が家庭内で行われる度合いが強まってきた。つまり、日本の子育ての歴史は、むしろ家庭が教育力を持つようになってきた過程だと見ることができる。教育社会学者の広田照幸は、このような認識に基づき「以前よりも多くの母親がパーフェクト・チャイルドを作り上げるべく、パーフェクト・マザーを目指している」という批判的見解を打ち出している。

パーフェクト・マザーたらんとする母親の苦労は大きい。家庭教育が無限定的な性格をもつからである。どのようなことをやれば、子どもにとってよい結果が出るかが曖昧だし、結果が出るのが数年後、数十年後であるからだ。

さらに問題なのは、家庭教育の様相は社会階層によって違い、それが将来の格差につながっているということだ。経済的・文化的な資本を持った家庭であれば、子どもを早期から塾に通わせたり、美術館や博物館などに頻繁に連れてゆくということが可能になる。そして、それが将来の学力の差、入学できる学校の差、収入などに結びついているというのだ。

日本は欧米に比べ、中産階級/労働者階級というような対立がなく、国民の多くが自分は中流だと意識してきた社会であった。しかし様々な研究により、現実はそうではなかったという分析がなされてきている。子育てという領域においても、親の学歴や収入などによって子どもに有意な差が出ているというのが、本田の分析である。

近代社会の重要な構成基盤の1つは「メリトクラシー(業績主義)」だ。貴族や封建領主が自らの親族に支配的な地位を相続する社会の仕組みは、近代社会においては効率が悪い。だから業績(=能力+努力)を重視する。

しかし社会階層が家庭教育に影響を与え、かつ家庭教育が将来の地位を左右しているとしたら、これは前近代と同じ「属性主義」の社会だ。それでも「家庭教育の重視」は訴えられるべきだろうか。