苅谷剛彦『大衆教育社会のゆくえ―学歴主義と平等神話の戦後史』

高校教育の拡大について調べたかったので再読。著者自身、「教育社会学の適した入門書」と言っているように、新書なのに内容は深いと改めて思った。


『東大生はなぜ「一応、東大です」と言うのか?』という本があったような気がする。この本そのものは読んではいないが、タイトルに掲げられた問いは基本的に、「大衆教育社会」という概念で答えられると思う。


「大衆教育社会」とは、(1)大衆的規模での教育拡大、(2)メリトクラシー(業績主義)の大衆化、(3)「学歴エリート」による大衆型支配、という3つを意味する。

この中で重要なのは(2)のメリトクラシーの大衆化だ。身分や家柄で社会的地位が決まっていた前近代社会に対し、努力と能力による業績を基準に人々の地位が決まるというのは、程度の差はあれ近代社会に共通する。しかし、戦後日本に独特であったのは、業績主義的な見方が階級や階層という区別なく、広く人々に浸透したことだった。イギリスやフランスにおいては、社会をとらえる上で階級という視点が重視される。労働者階級の子どもたちは学校からドロップアウトしやすいとか、中産階級の子どもたちはホワイトカラーの管理職に就きやすいということが問題になる。それに対し、日本においては(実際には生まれによる不平等はずっとあったものの)「努力すれば誰でもよい学校に行き、よい会社に入ることができる」という考えが受け入れられてきた。そしてまた、出身階層による差が問題にされにくいような手続き的に公平な試験制度が成立してきた。先にあげたイギリスやフランスにおいては、大学入学に際して高度な思考力を要する試験、口述試験が実施される。これは、家庭における両親の文化的素養や言葉遣いの影響を受けやすく、中産階級に有利な試験となる。一方、日本では事実や知識を問う暗記型の試験が実施されてきた。つまり、誰が有利ということがない公平な試験の方法だということである。

これに加えて、日本では「学力による序列化=差別」とみなし、能力別学級編成を忌避するという見方が長らくあった。すなわち学力の違いは素質の差ではなく、本来の能力を発揮できていないだけなので、そうした能力を開花させてゆくのが教育の努めであるという「能力=平等」観が支配的であった。

上に挙げた、階層的な視点なき選抜と「能力=平等」観。これにより、試験を突破し難関大学に入学した「学歴エリート」は、自らの出自ではなく、努力によって試験に合格したという認識が強くなる。つまり、イギリスやフランスのように「自らの特権に対する責任(ノブレス・オブリージュ)」を意識することが少ない。かつ、「能力は誰にでも等しく与えられている」のだから、自らの成功をひけらかし、序列を強調することは他の人々に「差別観」を与えることになりかねないので配慮をしなければならない。


そうした、日本という大衆教育社会における「学歴エリート」の心情が「一応、東大です」という言葉に表れているのではないだろうか。

ただし、この説明には不十分なところがある。ではなぜ、同様にして「一応、慶應です」、「一応、早稲田です」という言い方はあまりされないのか。東大だけが特別にシンボリックな意味を持っているのはなぜか。

これには明治以来、官僚の大部分を東大が占め、日本を動かしてきたことが関係していると思われるが、十分に考察できるには至らないのでこの辺でやめておく。



<追記>
この前、生協の職員さんと昼飯を食べていた時に聞いた話を思い出した。
曰くここ数年、ちょうど「東大生タレント」が出てくるようになってきた頃から、東大生のイメージが明らかに変わってきたということ。東大グッズが売れるようになってきたのも、比較的最近のことらしい。

「東大」というシンボルが露出し、消費される。そうした背景にはいったいどのような変化があるのだろうか。