山岸俊男『安心社会から信頼社会へ―日本型システムの行方』

記憶にある限りでは読むのが初めてな、社会心理学の本。

これまでの日本は、安心社会と呼べるようなものであり、近年それが揺らいでいる。新たな社会のあり方として、信頼社会へ移行してゆくべきではないか、という内容。

安心社会とは、社会的不確実性が何らかの形で打ち消されている社会のことを指す。例えば、本書で引かれているピーター・コロックという研究者の出す事例によれば、東南アジアにおけるゴムの取り引きだ。この地域においては、生ゴムの取り引きは特定の生産者と特定の仲買人との間で、しばしば何世代にもわたって行われていた。

一方の信頼社会とは、社会的不確実性が存在する際に、あえてコミットすることを人々が良しとする社会であるといえる。初めて会う他者、共同体の外の他者に対して、関係を持つことに人々が肯定的な社会のことだ。

著者によれば、今まで日本は安心社会、アメリカは信頼社会であったと述べられる。常識的な理解では、日本は集団主義的で、他者や会社のために働くことが良しとされる。一方のアメリカは個人主義的で、他者をあまり信頼されていないとしばしば言われる。

しかし、本書で引かれている実験の結果によると、見知らぬ他者と協力しようとする意志は、日本よりアメリカの方が強いのだ。つまり、日本人は見知った人々に対しては協力的であるが、そうでない人々に対しては不信になりがちであるということである。

これまでの日本は、そうした態度が人々にとって利益を生むような仕組みを持っていた。例を挙げれば、終身雇用制であり、この仕組みの下では、人々は見知った他者と長期的な関係性を結ぶことが利益につながる。

しかし、そうした日本型システムは近年変容してきた。グローバルな市場の変化は、終身雇用制という制度を維持するための機会費用を増大させた。日本が安心社会を維持することが難しくなってきているのである。

そこで著者は、日本も信頼社会へと移行する道を探る。しかし、「見知らぬ他者と協力しようとすることは、要はだまされやすくなれということではないいか。正直者が馬鹿を見るような社会になる必要はない。」という批判が考えられる。著者は、実験により、こうした批判に反証を加えてゆく。

著者はまず、質問紙により「一般的信頼尺度」なるものをつくる。その質問は例えば、「人々が法律を破らないでいるのは、良心のためではなく、恥をかいたり罰を受けたりするのを恐れているからだ」とか「たいていの人は、口ではなんと言っていても、自分の利害を優先させていると考えておけば安全である」というようなものである。この回答により、実験参加者は高信頼者と低信頼者へと分けられる。

そして、明らかになったことは、他者に対する情報がない段階では、高信頼者の方が他者を信頼する。しかし、ネガティブな情報が与えられたときは、高信頼者は低信頼者よりも、他者を信頼していないということである。すなわち、高信頼者は必ずしもだまされやすい人間ではなく、他者に対する情報を敏感に取り入れ、判断している人間だということになる。

こうして、著者は高信頼者が身につけているものを「社会的知性」と呼び、それを基にした社会のあり方を提起する。


全体としては、新書であるのに実験の手続きと結果がたくさん盛り込まれており、説得力に富んだ本であった。ただ、実験については、方法よりも先に結果について書くべきであると思う。何を明らかにするのか分からないまま、読み進めてゆかなくてはならないので、頭に入りにくかった。


かつてのような安心社会に単純に戻ることはできない、というのが今の日本なのだと思う。取り得る選択肢としては、1つが高いコストをかけてセキュリティを構築し、安心を確保すること。もう1つは、本書の著者が提起するような信頼をベースとした社会に向かうこと。このどちらかであろう。

現状では、どんどん前者の方に向かっているように思う。セキュリティの希求が過熱している。不可解な殺人事件、食の偽装…。

いずれにせよ、日本は、共同体内の人間に対しては情が厚いが、共同体外の人間に対しては排除的になるという視点は重要である。今後、日本社会が移民や難民を受け入れるべきかどうかというときに、そうした心性は間違いなく問題になってくるだろう。