見田宗介『まなざしの地獄』

まなざしの地獄

まなざしの地獄


1968年に起きた「永山則夫連続射殺事件」を題材に、当時の階級構造、都市と地方、青年の実存の問題を扱った作品。昨年に復刊したらしく、生協本郷書籍部にて、社会学の新刊の棚にあったものを購入。

青森の貧しい母子家庭で育った永山則夫(本文中では「N」と表記されている)は、自らの境遇から抜け出すために上京する。Nは自らの自己意識の解放を求める一方、都市空間は「金の卵」として、単なる機械的な労働力としてしか見なさない。都市が向けるそうした「まなざしの地獄」にNは苦悩していた、というような話。

ある特異な事件について、社会学の言葉で分析するのは、一般的には危険だと思う。本当は、誰にも分からないような様々な理由からそうした事件が起きているはずであるのに、縮減されて語られてしまうから。

しかし、この作品についてはそれを感じさせない。当時の青年たちは「高い給料」よりも、「休日の多さ」や「一人になれる場所」を求めていた(=「まなざしの地獄」からの避難)という量的調査と結びついて、Nという存在が当時の青年たちを代表していると同時に、N個人の実存的な問題が深く掘り下げられている。名人芸とでも言うべきか、普通の社会学者には真似のできないことだと思った。


ちなみに、昨年12月31日付の朝日新聞の朝刊に、この著者が永山則夫事件と、秋葉原無差別殺傷事件とを比較して、コメントを載せている。
それによれば、永山則夫事件が「まなざしの地獄」という問題が背景にあったのに対して、秋葉原無差別殺傷事件は「まなざしの不在」が背景にあったというもの。

ここまでは、なるほどと思わされたのだが、その後に「現代の若者たちはリアリティの感覚が得られないことに苦悩している」というくだりがあって、これはどうなのだろうと思った。

吉川徹さんがブロクで批判しているのだが、
http://kikkawa.blog.eonet.jp/default/2008/12/post-8983.html

単に昔を基準として今の若者を「リアリティが薄いからダメ」と言っているようで、俗流若者論に結びついてしまうような気もする。

しかし、うまくは言えないのであるが、「リアリティの薄さ」のようなものに耐えられない人々がいるのも確かで(そうした事態を見田先生は「リア充」という言葉に見ているが)、バーチャルの時代が到来したからリアリティなしで全然OK! とも言えないような気がする。