天野郁夫『教育改革のゆくえ――自由化と個性化を求めて』

教育改革のゆくえ―自由化と個性化を求めて (UP選書)

教育改革のゆくえ―自由化と個性化を求めて (UP選書)

80年代に設置された臨時教育審議会以後の、後期中等教育高等教育生涯学習社会の流れを概説した本。

2章で、トーマス・P・ローレンの『日本の高校』を引いた、「大きな子ども」と「小さな大人」という話が面白かった。

 [アメリカではハイスクールの生徒は大人として尊重されるのに対し、日本では尊重されないという]こうした違いを説明するもっとも重要なものは何かについて、ローレンはこう言っています。「日本とアメリカの間にある基本的な文化の違いだ。アメリカ人にとっての高校生は、たとえ完全に大人とは言えないにしても、ほぼ大人に近い存在であり、大人とみなし大人として処遇してよい存在である。……一般にアメリカの教師は、大人としての権利と義務を十代の若者に与えることが、健全な教育のあり方だと考える。」
(中略)
 ところが日本はどうか。「日本では教師の義務は、生徒たちが大人の楽しみや悪行に手を出さないようにすることにある……。親のような態度で子どもに接するのが、教師の務めである」
(p.51)

筆者の主張は、こうした子ども観のどちらがよいということではない。確かに、日本で高校生を「大きな子ども」として扱っていることは、自立を妨げるものになっているかもしれないが、一方でそうした教育の仕方によって、非行や中退の発生率が先進国の中では著しく低く抑えられているということも指摘できる。

問題は、教育の制度的な面は流れが「自由化」の方へ向かおうとしているにもかかわらず、高校生を「大きな子ども」と見なす状況が変わっていないということらしい。


本書が書かれてから15年近くが経過しており、様々に状況は変わってきてはいる。
高校のことで言えば、学校が生徒の就職に極めて重要な役割を担っているという「学校経由」の就職は、だいぶ少なくなっているようだ。
しかし、人々が教育に向ける眼差しの基本的な部分にどれだけの変化があったのか、というと意外と変わっていないのかもしれないのかな、と本書を読みながら思った。