ドストエーフスキイ『カラマーゾフの兄弟』(4)

4ヶ月かけてだらだらと読んできたが、岩波版もようやく読了。

最後の巻は特に、「カラマーゾフ的なもの」が強調されているな、と思った。

陪審員諸君! カラマーゾフは二つの深淵を見ることが出来る、しかも同時に見ることが出来る、ということを思い浮かべて下さい!
(p.301)

憎しみながら同時に愛するとか、神のような考え持ちながら同時に悪魔のような行為をする、というように人間存在の本質を、矛盾した心性だとドストエーフスキイは見ていたわけだ。

そして、人間は弱く、悪の誘惑に屈しやすいが、善良にならなければならない、と最後にアリョーシャに仮託して述べている。

もしかしたら、私たちは悪人になるかも知れません。悪行を退けることが出来ないかもしれません。人間の涙を笑うようになるかもしれません。さっきコーリャ君が『すべての人のために苦しみたい』と叫ばれましたが、あるいはそういう人に向かって、毒々しい嘲笑を浴びせかけるようになるかもしれません。むろんそんなことがあってはならないが、もし私たちが悪人になったとしても、こうしてイリューシャを葬ったことや、臨終の前に彼を愛したことや、今この石の傍でお互いに親しく語り合ったことを思い出したら、もし仮りに私たちが残酷で皮肉な人間になったとしても、今のこの瞬間に私たちが善良であったということを、内心嘲笑するような勇気はないでしょう! それどころか、このひとつの追憶が私たちを大なる悪から護ってくれるでしょう。
(p.403)


しかし、改めて読んでみて、第二部は一体どういう内容になるはずだったのだろうと気になった。
亀山郁夫『『カラマーゾフの兄弟』続編を空想する』でも読もうかな。