内藤朝雄『いじめの構造――なぜ人が怪物になるのか』

いじめの構造―なぜ人が怪物になるのか (講談社現代新書)

いじめの構造―なぜ人が怪物になるのか (講談社現代新書)

いじめの研究で著名な社会学者、内藤朝雄の近著。

著者は学校におけるいじめというものを、群生秩序(群れの勢いの秩序)が侵された時に発露する暴力という風に見ている。

群生秩序の下では、独特の集団的メカニズムが作動する。いじめの加害者は他者を支配することによる全能感を得て、集団の利害関係を作り出してゆく。そして、その利害関係をもとに、さらに全能感を得るというような再生産が起きる。周囲の生徒たちは、この利害関係の中でうまく生きることに専念させられる。


 日本は、学校が児童生徒の全生活を囲い込んで、いわば頭のてっぺんから爪先まで学校の色に染め上げようとする、学校共同体主義イデオロギーを採用している。
 学校では、ひとりひとりの気分やふるまいがたがいの深い部分にまで影響しあう、集団生活による全人的な教育の共同体がめざされ、それがひとりひとりにきめ細かく強制される。若い人たちは、一日中ベタベタと共同生活することを強いられ、心理的な距離を強制的に縮めさせられ、さまざまな「かかわりあい」を強制的に運命づけられる。これが自動車教習所とは異なる「学校らしさ」である。学校運営の根幹は、生徒たちを日々調教して、その骨の髄まで沁み込んだ習慣の内側から、この「学校らしさ」を実現し維持することにある。(p.164)

 学校に集められた若い人たちは、少なくともそれだけでは赤の他人であるにもかかわらず、深いきずなでむすばれているかのようなふりをしなければならない。学校では「みんな」と「仲良く」し、その学校の「みんな」のきずなをアイデンティティとして生きることが無理強いされる。すなわち学校では、だれが大切な他者でだれが赤の他人なのかを、親密さを感じる自分の「こころ」で決めることが許されない。(p.172)


というような、内藤さんの歯に衣着せぬ論調は結構好きである。


いじめの問題を解決するためには、このような秩序を生みだす学校共同体主義イデオロギーを解体し、市民社会の秩序を導入してゆかなければならない、というのが著者の論理である。すなわち、暴力系のいじめに対しては法の論理を適用し、学校に警察を呼ぶ。そして、コミュニケーション操作系のいじめに対しては、学級制度を廃止して、生徒同士の人間的距離を取りやすくすべきだという。


いじめに対しては、徹底的に市民社会の秩序で対処してゆかなければならないという著者の意見には賛成できる。

ただし、暴力系のいじめに対して、警察を呼びだすのはそれなりに簡単にできると思うけれど、コミュニケーション操作系のいじめに対して、学級制度を廃止するという処方箋はなかなか難しいのではないかという気がする。

学級制度を廃止するということは、大学のように科目ごとに先生を選んで教室を移動するというような形にするということだから、かなりの予算が必要になる。さらに、学力の保障がきちんとできるかどうかという問題もある。自分に合った科目の選択をできるのは、おそらく誰もができることではないであろうから。


学校共同体主義イデオロギーを解体するという点に関しては…悪い部分も含めて比較考量しなければならないと思う。

確かに、学校におけるいじめが、一緒にいたくない他者と強制的にいさせられることによって起きているというのは事実である。ただし、日本の学校共同体主義的な特徴が全面的に悪いかというと、そうではない。

日本における少年非行や高校の中退率が相対的に少なかったのは、学校が生徒を囲い込んできたからであると言われる。そうした側面を踏まえて、どういうような選択をすべきかを議論してゆかなければならないのだと思う。