ジグムント・バウマン『コミュニティ――安全と自由の戦場』

コミュニティ 安全と自由の戦場

コミュニティ 安全と自由の戦場

なぜ「コミュニティ」という言葉がよいものと感じられるか、という問いに答えるのは簡単である。人柄や言動が信頼でき、友好的で、自分に好意を寄せてくれる人々の間で暮らすことを願わない人がいるであろうか。わたしたちは、無情な時代、競い合って人に一歩でも差をつけようとする時代(中略)にたまたま行き合わせている。そんなわたしたちに、「コミュニティ」という言葉は、とりわけ甘く響く。この言葉が呼び起こすのは、ないと困るものばかりであり、それなしでは安心できず、自信がもてず、人を信頼することができないものである。
(pp.9-10)

「コミュニティの一員である」という特権には、支払うべき対価がある。コミュニティが夢想にとどまっている限りは、対価は害にならないか、目につくこともない。対価は自由という通貨で支払われる。この通貨は、「自律性」「自己主張の原理」「自然にふるまう権利」など、種々の表現で呼ぶことができる。
(pp.11-12)

バウマンは本書で、コミュニティという多義的な概念について理論的な検討を行う。それは、人々に安全や安心をもたらすものであるが、一方で自由という対価を支払わせるという、時として葛藤をはらむものである。「安全と自由の戦場」という副題はそのような意味を含んでいる。

コミュニティについて議論する上で、本書で重視されるのは、90年代以降の世界の趨勢である。バウマンの言う、「液状化する近代」において、伝統的なタイプのコミュニティは解体する傾向にある。しかし、人々はローカルなコミュニティから解放されたからと言って、自由になれたわけではなく、むしろ存在論的な不安を絶えず抱えるようになった。そして、「既存のコミュニティ」が夢想するコミュニティと異なるものであるため、それを追求しようとして、さらに存在論的な不安が増大しているのだという。

また、バウマンはエリートたち(ロバート・ライシュの言葉を用いれば「シンボリック・アナリスト」)が、グローバルな経済活動を通じて成功し、自らをゲーティド・コミュニティ(周囲を塀で囲み、門に警備員を配した要塞的な住宅地)に撤退させていることを問題にする。そうした状況を、リチャード・ローティの言葉を援用し、「親の世代の集団的・連帯的闘争を個人的に利用して、大恐慌を切り抜けて成功を収めた子どもの世代は、豊かな公害住宅地に住み、自分たちの背後の跳ね橋を吊り上げておくことにした」とし、自らの成功を可能にした資源への無自覚さを批判している。

コミュニティに関する理論について、バウマンはコミュニタリアニズム(あるいはコミュナリズム)からは距離を取る。コミュニタリアニズムの主張する、安全と自由の「一挙両得」は「虻蜂取らずに終わる」と言うのだ。

また、多文化主義に対してもバウマンは痛烈に批判をする。なぜなら、多文化主義は「異質であるdifferent権利とともに、無関心indifferenceでいる権利を認めることになる」からである。


最後に、バウマンは改めてコミュニティによって安心をいかに確保すべきか、と問題提起する。なぜなら、安心が異文化間で対話が行われるための必須条件であり、「それなしでコミュニティが互いに心を開くことも、対話に乗り出すこともない」からだと言う。

しかし、それはゲイティド・コミュニティのようなものでは決してない。それは、「分かち合いと相互の配慮で織り上げられたコミュニティであり、人を人たらしめる平等な権利や、そのような権利の上で人々が平等に行動しうることについて、関心や責任を有するコミュニティである」とされている。


バウマンは、最後に新しい形のコミュニティの可能性について触れるのであるが、それは本当に可能なのだろうか。第1章によれば、コミュニティは「自然」で「暗黙」であるような理解の共有によって支えられている。つまり、コミュニティが語られてしまうとき、それはもはや存在せず、語義矛盾に陥っているのである。

ゆえに、バウマンの言う新しいコミュニティの可能性も、その再帰性ゆえにコミュニティ足り得ないのではないか、という疑問が生まれる。果たして「液状化」してしまった社会において、改めてコミュニティの「自明性」をつくり出すことは可能なのだろうか。