ポール・ウィリス『ハマータウンの野郎ども――学校への反抗 労働への順応』

ハマータウンの野郎ども (ちくま学芸文庫)

ハマータウンの野郎ども (ちくま学芸文庫)

ゼミのために再読。以前読んだのは、学部2年の終わりで、ちょうど専門に進学する前のこと。当時は理論的な部分が難解で、ほとんどエスノグラフィーの部分しか読めていなかったと思うが、労働者階級の子どもたちが示す学校文化への反抗がかなりリアリティを持って感じられて、「おお、これが教育社会学か」と、心底感銘を受けたように覚えている。


本書の原題は"Learning to Labour"である。

イギリス社会において、なぜ労働者階級の子どもたち―<野郎ども>(the lads)―は、自らの父親と同じような過酷で賃金の低い肉体労働に向かってしまうのか。従来の社会学理論においては、学校の持つ選抜機能が着目されてきた。学校に親和的な中産階級の文化よりも、労働者階級の文化は学業達成に置いて不利であり、労働市場においても不利な肉体労働に割り当てられてしまうというものである。

しかし、ウィリスの理論は、そのように労働者階級の子どもたちを受け身で抑圧されたものとしてではなく、彼らが自発的に肉体労働を選びとってゆくという分析の枠組みに基づく。ウィリスは、イギリスの仮名の都市、「ハマータウン」にあるセカンダリー・モダン・スクールの参与観察を通して、その過程を記述する。


労働者階級の子どもたちは、学校が教え込む「社会的上昇移動は基本的に当人の努力次第である」、「よい機会が教育によって創出される」という規範の欺瞞性を見抜き、それに反抗する。そして、教師におもねる真面目な生徒たちを<耳穴っ子>と軽蔑する。

筆者 きみたちにはあって、<耳穴っ子>にはないってものが、なにかあるかい?
スパイク ガッツ、決心……。ガッツじゃなくて厚かましさかな……連中よりもおれたちのほうが世の中を知ってるよ。やつら、数学や理科ならちょっとは知ってるかもね、でもそんなこと、どうってことないや。あんなものだれの役に立つもんか。苦労したあげくにそれがわかるんだろうな……おれたちがいま知ってることを、連中は二十歳になろうかってころにやっと気がつくのさ。やつらにとってはこれからなんだ。おれなんかはもういろいろなことをくぐり抜けてきた、ほんとだぜ、浮いたり沈んだり、落胆したりさ。おれはそれを受け入れてきたんだ、しょうがないさって、そのまま受け入れてきたんだよ。そこが肝腎なところだよな。<耳穴っ子>が仕事に就いたら……なんていうかな……きっと規則にしがみついてさ、猛烈に働くんじゃないの。あいつら、数学や理科や国語では頭がいいよ、そりゃ認めるね。でも生きかたについちゃ、まるでパーだよ。おれから見りゃ、負け犬だな。
(p.235)


学校文化への反抗は、精神的行為一般の否定へとつながり、さらに<野郎ども>の家父長制的な性別役割観、男尊女卑の価値観と結びつき、「男らしさ」を示す肉体労働への積極的な姿勢を示すことになる。<野郎ども>が自発的に肉体労働に就いてゆく過程はこのように説明される。体制に抵抗しようとする彼らの文化は、逆説的に階級の再生産に寄与してしまうというわけである。

ウィリスが明らかにしたのは、イギリス労働者階級の独特な文化のリアリティだけではない。階級の再生産が文化の問題に深く根ざしているため、その不平等を解消するのが著しく困難であるというものであった。


その後、ウィリスの研究は、カルチュラル・スタディーズに引き継がれ、日本の教育社会学研究にも多大な影響を与えてきた。
本書が示すイギリス社会のリアリティは今なお並々ならぬものがあるが、それでもウィリス本人はすでに過去の人となっているという指摘もあるようだ。

http://ci.nii.ac.jp/naid/110001877854

その発表にコメンテーターとして参加した「横にいたあいつ」が、筆者の目当てであったポール・ウイリスである。校長氏は、筆者と雑談するまで、ウイリスが誰であるか、まったく知らなかった。教育社会学を知らない実践家である彼の目に移ったウイリスは、ただの、時代遅れの教条的マルクス主義者にしか過ぎなかった。初めて、あのウイリスの顔を拝み、肉声を聞いた筆者も、彼のコメントが10分、15分と長引くにつれ、どこか「のど自慢大会」の講評にも似た、饒舌だがリアリティーを感じられないその語り口に落胆の念を禁じざるをえなくなった。偶像失墜である。

一世を風靡したスターが、すでに流行らない歌を歌っているときのように、こういうのを見ると何か悲しいものである。