ピエール・ブルデュー,ジャン=クロード・パスロン『再生産』

再生産 〔教育・社会・文化〕 (ブルデュー・ライブラリー)

再生産 〔教育・社会・文化〕 (ブルデュー・ライブラリー)

学校制度は、文化資本の収益性を確かなものにし、この資本の伝達を正統化するのであるが、そうした機能を果たしていることを包み隠しながら、これらを行う。そして、学校制度のこれらの機能に人々が盲目であることを前提として、生得的文化の反自然的観念が成り立ち、かつ、その観念が、さらにこの盲目をうみだすのである。それゆえ、社会的特権の獲得がいよいよ密接に学歴資格の所有にかかってきている社会では、学校の機能は、直接に公然とはもはや伝達できないブルジョアジーの諸権利のひそかな継承を保証することに尽きるのではない。それは、ブルジョア的社会正当論の特権的手段として、特権者に特権者らしくみえないようにするという無上の特権をあたえ、それだけ容易に、相続権のない者たち、かれらの就学上ならびに社会的な運命はかれらの才能あるいは能力の欠如によるのだ、と説き、納得させるのである。こと文化に関しては、絶対的な剥奪は、剥奪の意識をも排除してしまうのだから。
(p.227)

難解だったが、何とか読み通した。
家庭環境等によって獲得されるハビトゥスを「天与の才」であるとみなされてしまうのは、竹内洋『立志・苦学・出世』で、現代の学歴エリートは、努力よりも自らの「生まれのよさ」を強調するのが特徴、と言われていたのと似ていると思った。

大学生を対象としたテストの話で、多変量解析による共時的分析では、言語資本と成績の関連が見えなくなる、というところが印象に残った。出身階級によって選別の度合が異なるのでそれを変数に組み込まないと、バカロレアを通ってきた人たちが対象である限りは、見かけ上は差がなくなってしまうということらしい。

こうした選別の過程を考えなければならないことが、文化的再生産論の実証が難しいことの理由の一つにあるのではないかと、ちょっと思った。