2009年11月8日

■仙台J1昇格 水戸に4-0快勝

http://www.kahoku.co.jp/news/2009/11/20091108t14026.htm

まだ3節残しているが、湘南が引き分け、甲府が負けて昇格確定。昨年は入れ替え戦で磐田に負けて昇格できなかったこともあり、やっとという感じ。

前にJ1だったのは自分が高1、高2の頃か。時間の経過を感じる。


漢検
大学の正門を通ったら、「漢検会場はこちら」という看板を持っている人がいた。

これはバイトの人だよなと思いつつ、職員数と検定会場数の関係がどの程度なのか気になって調べてみた。

http://www.kanken.or.jp/jouhou_koukai/pdf/2_business_report_h20.pdf

によると、平成21年3月31日時点の職員数は64人、平成20年度第3回の会場数は公開会場が185、準公開会場が12,919とのこと。ということは、大半はバイトや嘱託職員などで回しているのか。これだけの規模の検定試験をマネジメントするのは大変だと改めて思った。


■飲み会
和歌山で農家を営んでいる先輩と久々にお話しをできた。

限界集落に税金を投入することはどのように正当化され得るか(あるいはされ得ないか)という話で盛り上がった。個人的には民主党の個別所得補償制度についてもっと話をしたかったのだけれど。

議論が白熱していたので自分はちょこちょこと口を挟む程度だったのだが、その間ずっと「社会」という概念と民主主義について考えていた。すなわち、市野川容孝が『社会』の中で言っているようなこと。

 しかし,このような[国境を超えて社会的なものを広げていくという]試みが,現在の日本では局所的なものにすぎないこともまた事実だろう.自己決定の尊重という,それ自体,重要な理念は,90年代以降のリベラリズムの大はしゃぎの中で,もっぱら人びとを分断し,私的なものへと退却させるためだけに動員されている.そこで問われるのは,他者の自己決定を尊重し,また実現するために自分に何ができるか,ではない.自分の中に没入するために,他者への想像力をどうやって遮断するかであり,その遮断の最もありふれた方法は,自己決定を自己責任にすり替えることである.
(市野川容孝『社会』,p.212)

 ハーバーマスの議論は総じて,真理における理解と一致という18世紀的啓蒙に立ち返ろうとするが,アレントがそれ以上に重視するのは「人間の複数性(プルーラリティ)である」.「人間の複数性というのは,公的領域である出現(アピアランス)の空間にとっては必要不可欠な条件である.このために,この複数性を取り除こうとする企ては,必ず,公的領域そのものを廃止しようとする企てに等しいということになるだろう」(中略)
 そして,アレントが「社会的なもの」を批判したのは,それがこの「人間の複数性」を廃し,人間を画一化するからだった.ルソーから始めて,そのことを私たちもすでに何度か確認してきた.ハーバーマスは民主主義と公共性という観点から,社会的な国家の現状を批判しながら,私生活主義の解放という問題を提起したが,社会的なものに対する批判は,それだけではまだ不十分である.人間の複数性、その差異の絶えざる承認というもう一つの課題を,民主主義と公共性に組み込んで,そこから社会的なものを批判的にとらえなおす必要がある.
(同前書,pp.213-214)


■フランス語
フランス文学の大家、石井洋二郎は大学1年のときにフランス語で不可を取っていたという話を聞いてびっくりした。人生分からないものだと思った。


■blog
教育社会学の単語を適当に打っていて、このブログが検索上位に来ることが判明。
読み返すと噴飯ものの記事も少なからずあるが、とりあえずは消さないでおこうと思う。