ミシェル・フーコー『知の考古学』

知の考古学(新装版)

知の考古学(新装版)

 ――われわれは言説を、他のすべてを排除してそれらを生じさせる審級中で、それらを、言われていないものから分離する境界において研究する。問題なのは、それらをとりまく無言をして語らせることでも、それらにおいて、それらの側で、黙ってきたもの、沈黙に帰せられたものを再発見することでもない。問題になるのは、また、しかじかの発見を妨げ、しかじかの定式化を固持し、言表行為のしかじかの形態、しかじかの無意識的な意味作用、あるいはしかじかの生成する合理性、を抑圧したさまざまの障害ではない。そうではなくて、現前の限られた一システムを明確化することである。したがって、言説形成=編成は、発展する一つの全体――固有の力動性や独特な感性をもち、それとともに、定式化されていない一つの言説中で、それが言わないこと、あるいはたちまちそれと反対なことをいうもの、を当然含むもの――ではない。それは、豊かで困難な一つの芽生えでは決してなく、空隙、空白、不在、限界、切断などの一つの配分である。

 ――しかしながら、これらの「排除」を一つの抑圧や圧迫に結びつけないし、明白な言表の下に、なにかが隠れて在り、潜在的なままでいる、とは考えない。われわれは言表を分析するが、それは可能的現出に至らない他の言表に代わるものとしてではなく、たえずその固有の場所にあるものとして、である。言表を、完全に展開されてはいるが、いかなる重複をも含まぬような、一つの空間の中に置く。隠されたテキストというものは存在しない。したがってまた、いかなる過剰も存在しない。言表領域はすべてがその固有の表面上にある。個々の言表は、そこで、自己にしか属さない一つの場所を占める。したがって、記述は、一つの言表が、いかなる言われざることの場所を占めるかを見出すことにあるのではないし、いかにして一つの沈黙した、共通のテキストに帰せられうるか、を見出すことにあるのでもない。むしろ反対に、いかなる独特な場所をそれは占めるか、さまざまな形成=編成のシステム中のいかなる分岐点がその局在化の見定めを可能にするか、言表の一般的分散のうちでいかにしてそれが自己を他から分離するか、を見出すことにある。

(pp.182-184)

歴史を非連続的なものと捉え、言説実践の中で言表がなす諸連関を含むシステムとしての集蔵体を分析するのが、本書で言われる「考古学」。

本読んでこんなに疲労したのは久しぶり。言表、言説、集蔵体、知、歴史、エピステメーといった用語が独自の意味で用いられているうえに、「〜ではないし、〜でもない」といった否定表現の繰り返し、フランス語訳の特有の読みづらさが重なってきつかった。

学部時代に『監獄の誕生』を一応読んだが、あれも内容が全然頭に入らなかった。今度こそはと思ったが、フーコー先生を理解するにはまだまだ修行が足りんようです。