山本七平『「空気」の研究』

「空気」の研究 (文春文庫 (306‐3))

「空気」の研究 (文春文庫 (306‐3))

 一体、以上に記した「空気」とは何であろうか。それは非常に強固でほぼ絶対的な支配力をもつ「判断の基準」であり、それに抵抗する者を異端として、「抗空気罪」で社会的に葬るほどの力をもつ超能力であることは明らかである。以上の諸例は、われわれが「空気」に順応して判断し決断しているのであって、総合された客観情勢の論理的検討の下に判断を下して決断しているのではないことを示している。だが通常この基準は口にされない。それは当然であり、論理の積み重ねで説明することができないから「空気」と呼ばれているのだから。従ってわれわれは常に、論理的判断の基準と、空気的判断の基準という、一種の二重基準のもとに生きているわけである。そしてわれわれが通常口にするのは論理的判断の基準だが、本当の決断の基本となっているのは、「空気が許さない」という空気的判断の基準である。
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「空気支配」の歴史は、いつごろから始まったのであろうか? もちろんその根は臨在感的把握そのものにあったのだが、猛威を振い出したのはおそらく近代化進行期で、徳川時代と明治初期には、少なくとも指導者には「空気」に支配されることを「恥」とする一面があったと思われる。「いやしくも男子たるものが、その場の空気に支配されて軽挙妄動するとは……」といった言葉に表れているように、人間とは「空気」に支配されてはならない存在であっても「いまの空気では仕方がない」と言ってよい存在ではなかったはずである。ところが昭和期に入るとともに「空気」の拘束力はしだいに強くなり、いつしか「その場の空気」「あの時代の空気」を、一種の不可抗力的拘束と考えるようになり、同時にそれに拘束されたことの証明が、個人の責任を免除するとさえ考えられるに至った。
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「空気が読めない」という言葉が成立する以前に、「空気が支配する」という表現はよく用いられていた。その「空気の支配とは何か」というテーマから、独自な日本社会論を展開している著作。

著者によれば、対象を臨在感的に把握することでそれを絶対化し、むしろ逆に対象に支配されてしまうことが「空気の支配」。そして、これが欧米にはない日本社会特有の判断の基準をなしているという。例として著者が引いているものの一つが、戦艦大和の出撃。無謀なことを示す明確なデータがあったにもかかわらず、「その場の空気」が決定の根拠になったと論じている。

こうした「空気の支配」が起こる理由を、著者はキリスト教による倫理が存在する欧米と違い、日本においてはファンダメンタルなものがなく、状況倫理が浸透しているからだという。その引き合いとして、戦前において天皇が現人神であるということと、ダーウィンの進化論という本来矛盾するはずのものが、矛盾なく学校において教えられていたことなどを挙げる。


後半のキリスト教に関する記述がかなり専門的すぎて、著者の説明が成功しているのかどうかはよくわからない。ただ、「空気」以外の規範が存在しない日本において、いかにしてこれから脱却することが可能かという問いは現代においても有効なのではないか。


しかし、近年用いられる「空気が読めない」という表現と、本書で言われる「空気による支配」とは若干指すものが違うようにも感じる。
本書で言われるものは、対象としてすでに存在しているもの(例として、公害問題においてある金属が原因かどうか)の絶対化という文脈で用いられているのに対して、「空気が読めない」の方は対象が必ずしも確定しておらず、どちらかというと間主観的な文脈で用いられるのかなという印象。