マイケル・J・サンデル『リベラリズムと正義の限界』

リベラリズムと正義の限界

リベラリズムと正義の限界

ロールズの『正義論』に対する包括的な批判。『正義論』の立場を、いかなる善の構想からも独立した正を優越させる「義務論的リベラリズム」と規定し、それが理論的な困難を抱えていることが示される。


ロールズリベラリズムは、原初状態において主意論的な自己決定によって契約を行うという「負荷なき自我」として主張されている。また、ロールズが格差原理を導入する際に、自然の才能の分配が、社会全体を通して共有されているものだとする「共通資産」という考えがあり、そこにはコミュニティと呼べるものが前提されているという。
しかし、ロールズが想定する主意的な自己決定からでは、そうしたコミュニティは導きだされえないということが批判されている。すなわち、コミュニティによる善の構想からの正の優越性を主張することはできないということ。

盛山先生が『UP』11月号にて、ロールズの言う原初状態は、仮想的な状況なので、「負荷なき自我」を想定するのはいわば当然だと書いていた。しかし、サンデルロールズが仮想的な状況をつくっていることを十分に踏まえた上で、その矛盾を指摘していると思った。


それから、本文の中では、サンデルリベラリズムの限界を突き詰めて論じており、また本書はリベラル・コミュニタリアン論争のきっかけをつくったものの、「第二版への序」で注意において、「つねにコミュニタリアニズムの側にいるとは思っていない」と書かれている。とりわけ、多数決主義の別名であるコミュニタリアニズムの擁護者ではないということが断言されている。
そして、リベラリズムコミュニタリアニズムが、マーティン・ルーサー・キング・ジュニアが南部の分離主義コミュニティの中を行進することと、ネオ・ナチがホロコーストの生存者が住む街の中を行進することのどちらにも一貫した根拠を与えられないと、「コミュニタリアニズムの限界」についても論じられている。

サンデルの立場で重要と思われるのは、「第二版附論」。この最後で、対立する道徳的・宗教的見解を持つ人々による熟議が、リベラリズムよりも広い公共的理性を与えるものとして評価されている。