マックス・ヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)

これまで一度読んだ本を読み返すという作業をあまりやって来なかったのだが、古典を中心にぼちぼち読み返す予定。

これは前に読んだ時期はよく覚えていて、学部1年の正月の時。実家で読んでいる途中にインフルエンザにかかった。この時にはもう文転することは決めていたんだっけ?



いくつかメモを。
■ヴェーバーの比較宗教社会学研究の出発点となっている著作。ゆえに儒教やユダヤ教などとの比較を意識しつつ読むのが大事。儒教やユダヤ教など金儲けに寛容な宗教のあるところでは決して近代資本主義は生まれなかった→金儲けを徹底的に否定する思想が近代資本主義を生んだと考えなければならない、という推論。


■プロテスタンティズムを一括りに理解するのでは不十分。第2章の1「世俗内禁欲の宗教的諸基盤」ではかなり、詳細な記述がなされている(ここが一番読むのが辛い)。ルターの聖書翻訳から「天職」概念が生まれたが、それ自体は世俗内禁欲を生み出すには至らなかった。世俗内禁欲を生み出したのは、カルヴィニズムおよびその周辺(敬虔派など)と信団(ゼクテ)。


■ロビンソン・クルーソーに合理的な人間の理念型を見たのは、大塚久雄のオリジナリティだと思い込んでいたのだが、ヴェーバー自身が本書で注目していた。


■ヴェーバーはマルクスの唯物論を批判したが、決して宗教が経済構造を決定するという逆転させた見方をしたわけではない。

この論稿ではさしずめ、重要であるにせよ、ただ一つの点だけについて、その影響の事実とあり方を、それの〔心理的〕動機に遡源させてみようとしたのだった。が、またその次に、プロテスタンティズムの禁欲それ自体が逆に、その生成過程においても、その特質についても社会的文化的諸条件の総体、とりわけ経済的条件によって深く影響されているということも明らかにしていかねばならないだろう。(中略)一面的な「唯物論的」歴史観にかえて、これまた同じく一面的な、文化と歴史の唯心論的な因果的説明を定立するつもりなど、私にはもちろんないからだ。
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■鉄の檻の箇所はやはり好きだ。

バックスターの見解によると、外部についての配慮は、ただ「いつでも脱ぐことのできる薄い外衣」のように聖徒の肩にかけられていなければならなかった。それなのに、運命は不幸にもこの外衣を鋼鉄のように堅い檻としてしまった。禁欲が世俗を改造し、世俗の内部で成果をあげようと試みているうちに、世俗の外物はかつて歴史にその比を見ないほど強力になって、ついには逃れえない力を人間の上に振るうようになってしまったのだ。
[365]