矢野眞和『「習慣病」になったニッポンの大学―18歳主義・卒業主義・親負担主義からの解放』

18歳の大学入学者が多くを占めていること、卒業できるのが当たり前であること、親が学費を負担することが当然であること。日本の大学を巡るこれらの問題の認識は研究者には広く見られるが、これをそれぞれのアクターにとって経済合理的な行動であると見なし、決して道徳的な非難に終始しないのが矢野先生の特徴。

例えば、学力のない学生が入学してきても、大学にとっては「お客さん」であり、経営を維持するためには中退・落第させないのは経済合理的な行動である。また、学生の年齢構成が極めて同質的である状況においては、企業が新卒一括採用にこだわり続けるのも経済合理性を有する。
ゲーム論的な枠組みで言えば、他のプレイヤーが戦略を変えず、また利得行列も変化しなければ、それぞれのプレイヤーは現在の戦略を取り続けるのが合理的ということ。

もちろん、それで社会的に最適な状態がもたらされているとは言えず、工学的な発想から改革の方向性が模索される。

そもそもこうした態度であるべきだという「精神論」や、設置基準やカリキュラムなどのルールである「制度論」による改革では駄目だと論じ、「資源論」に基づく改革の必要性を訴える。その中心であり、一見すると突飛なのが、「消費税を増税して大学を無償にせよ、これが本当の改革だ」という主張。

大学が無償になれば、親は学費負担から解放され、機会の不平等(大学全入時代=学力がなくてもお金があれば誰でも大学に入れる)が緩和される。また、無償になれば学生の年齢構成も異質になり、企業が新卒一括採用にこだわるメリットも小さくなる。くわえて、無償になれば大学が学力や学ぶ意欲のない学生を在籍させ続ける必要もなくなる。中退のコストも小さくなり、「明るく中退、元気に復学」という形に移行する。

税金を投入して大学を無償にすることは、18歳主義・卒業主義・親負担主義が絡み合った日本の大学を改革する上で、家族・大学・企業を変えるよりも、最も操作しやすい変数であると主張される。

しかし、この最も操作しやすい変数でさえ現状では実現する可能性は小さい。まさに長年の習慣による病理である。