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世界史:欧米近代社会の確立

メモ

「世界の歴史」編集委員会編『もういちど読む山川世界史』、第6章「欧米近代社会の確立」([145-79])。


センター地理受験のため、世界史の知識は乏しい。特に近代の知識のなさは、社会科学の古典を読む時につらく感じる。
ちなみに高校では東京書籍の世界史教科書だったため、「もういちど読む」ではない。



第6章「欧米近代社会の確立」

●「二重革命」と「大西洋革命」
「二重革命」…アメリカ独立革命フランス革命産業革命
アンシャン・レジームの動揺
イギリスが「世界の工場」としての地位を確立

「大西洋革命」…アメリカ独立革命フランス革命ラテンアメリカの独立運動


独立戦争
七年戦争後、イギリスは重商主義政策を強める
アメリカ植民地における印紙法(1765年)への不満。「代表なくして課税なし」
ボストン茶会事件(1773年)
1774年、大陸会議。保守派と急進派の対立。急進派が「愛国派」を名乗る
1776年、ジェファソンの草案による独立宣言
トマス・ペインの『コモン・センス』。啓蒙思想が現実の力に
愛国派の独立軍は総司令官ワシントンの指揮のもとに戦った。
1787年、合衆国憲法制定。三権分立による連邦政府の誕生。


フランス革命とナポレオン
絶対王政化のフランスにおけるアンシャン・レジーム。第一身分(聖職者)、第二身分(貴族)は免税などの特権を持ち、国民の9割を占める第三身分(平民)との不平等。
18世紀後半になると、商工業ブルジョワジーの誕生など、身分内の貧富の差が激しくなる。
啓蒙思想アメリカ独立革命の影響もあって、改革への機運が高まる。
しかし、革命のきっかけは特権貴族。政府による財政再建改革をはばもうと、貴族が三部会を招集させるよう政府に働きかけた。


1789年5月、三部会において特権身分と、第三身分代表のブルジョワジーが対立。第三身分は三部会を国民議会と称して、憲法制定まで解散しないことを誓った(球戯場の誓い)。
王は特権貴族に動かされて武力で国民議会に圧迫を加えた。これに反発して、7月14日バスティーユ牢獄襲撃。
8月26日、人権宣言の採択。
議会を主導したのは、ラ・ファイエットミラボーなど自由主義貴族や、上層ブルジョワジーを代表する立憲君主主義者。


1791年10月、立憲君主主義者のフイヤン派と共和主義のジロンド派が対立。ジロンド派は92年、革命に干渉するオーストリアに宣戦。愛国心が高まり、多くの義勇兵が集まった。8月10日、パリの民衆は義勇兵とともに王宮を襲撃。議会は王権を停止して解散し、普通選挙による国民公会が招集された。国民公会は共和政(第一共和政)を宣言した。


ジロンド派ジャコバン派(山岳派)の対立。ジロンド派の追放。
ジャコバン派ロベスピエールを中心に恐怖政治を行う。
戦況が好転するにつれ、独裁への不満が高まり、ロベスピエールは政敵により倒される(テルミドール9日のクーデタ)。
穏和派が勢力を回復し、1795年憲法を制定し、総裁政府を発足させる。ただし、王党派とジャコバン派の残党が残り、政局は不安定。


1796-97年のイタリア遠征にてオーストリア軍に大勝し、ナポレオンが頭角を現す。1799年11月、(ブリュメール18日)軍事クーデタで総裁政府を倒し、統領政府をつくった。


第一頭領となったナポレオンは、フランス民法典の制定などを行う。1804年国民投票によって、皇帝ナポレオン1世に(第一帝政)。
フランスの強大化を恐れたイギリスは1805年、第3回対仏大同盟を結成。トラファルガーの海戦でフランス海軍を破った。
1806年、イギリスを大陸市場から締め出すためにナポレオンは大陸封鎖令をしいた。オーストリア・ロシア連合軍をアウステルリッツの三帝海戦(1805年)で破り、さらにプロイセン・ロシアの連合軍を破ってティルジット条約(1807年)を結んだ。


ナポレオンは1812年のモスクワ遠征で大きく兵力を失って撤退。解放戦争(諸国民戦争)が起こり、1814年にパリ占領ナポレオンはエルバ島に流される。フランスではブルボン朝が復活し、列国は戦後処理のためにウィーン会議(1814年-15年)を開いた。
会議がゆきづまるうちにナポレオンはエルバ島を脱出して再び帝位についたが、ワーテルローの戦いで大敗し、セントヘレナ島へ流された(百日天下)。


産業革命
イギリスで最初に産業革命が起こった。いくつかの理由として、名誉革命以後に商工業が大いに発展、地主貴族が中小農地を併合して大農地をつくり(エンクロージャー)農業の生産能力が高まった、エンクロージャーで土地を失った農民が都市へ流入した、七年戦争の後に広大な海外市場を持ったことがある。


●ウィーン体制とその崩壊
ウィーン会議によって復古的なウィーン体制が成立した。啓蒙思想に対する保守思想。神聖同盟や四国同盟が結ばれ、オーストリアメッテルニヒが国際政治を指導した。
これに対して各国のブルジョワジーは自由主義で対抗した。


ラテンアメリカの植民地にて、1810-20年代にかけて10数カ国がたてつづけに独立を宣言した。イギリス・アメリカの支援によって独立は成功したが、寡頭専制が続き、また大国に左右されるモノカルチャー経済が展開することになった。


フランス復興王政はシャルル10世が即位してから反動政治を強め、1830年7月に議会を強制解散したため、革命が起こった。シャルル10世は逃亡し、自由主義者に推されたルイ・フィリップが即位した(七月革命)。


1830年以降の西ヨーロッパでは、労働運動と社会主義思想が強くなった。
イギリスでは、工場法(1833年)が制定された。1839年には普通選挙制を要求するチャーティスト運動。


七月革命による王政は少数の大資本家と結びついたため、中小のブルジョワジーは選挙法の改正を要求し、労働者もこれに同調した。この動きを政府が抑えたため、1848年2月、パリで革命が起きた(二月革命)。
二月革命七月革命以上に大きな影響を各地に引き起こし(「諸国民の春」)、オーストリア・ドイツで三月革命が起きた。
ウィーンでは3月に暴動が起きてメッテルニヒは亡命した。
しかし、各国で国王や貴族の保守勢力は強く、革命の勢いは急激に衰えた。フランスではナポレオンの甥ルイ・ナポレオンボナパルトが1851年クーデタによって王党派・共和派を追放し、翌年には国民投票で皇帝となり、ナポレオン3世となった(第二帝政)。


ナショナリズムの発展
1853年、地中海への出口を求めていたロシアは、オスマン帝国内のギリシア正教徒の保護を理由に、オスマン帝国と開戦した。インドへの通路確保のためにオスマン帝国保全を願うイギリスと、威信回復を狙ったフランスはオスマン帝国と同盟してロシアを破った(クリミア戦争)。


列強の中で最も改革が遅れていたロシアでは、クリミア戦争後にアレクサンドル2世が自由主義的改革に着手した。
重要なものとして1861年の農奴解放令。
1870年代のころから、自由主義的な改革の担い手であったインテリゲンツィアが「人民のなかへ」をスローガンにして農村に入り、社会改革運動をを始めた。これらの人びとはナロードニキ(人民主義者)と呼ばれている。


イギリスは順調な自由主義的発展の道を歩み、ヴィクトリア女王<位1837-1901年>時代の繁栄期。
第一次選挙法改正(1832年)により、腐敗選挙区が撤廃された。
自由党と保守党の二大政党が交互に政権を担当し、議会政治が樹立。特にグラッドストンディズレーリが代表的。
1867・1884年の第二次・第三次選挙法改正によって男性普通選挙に近づいた。
しかし一方で植民地の重視もまた始まった。スエズ運河支配(1875年)、インド帝国の成立(1877年)。


フランスでは、ナポレオン3世が国民の支持を対外政策の成功によってつなぎとめようとした。クリミア戦争に続いてイタリア統一戦争(1859年)、インドシナ出兵(1862年)を行ったが、メキシコ出兵(1861-67年)の失敗で威信を失い、プロイセン・フランス<普仏>戦争(1870-71年)に敗れて第二帝政は崩壊した。
帝政に代わりブルジョワ共和派の臨時政府が生まれたが、屈辱的な対独講和にパリ民衆は反対し、1871年3月にパリ・コミューンを宣言した。これは世界最初の労働者による自治政府であったが、2ヶ月後に政府軍に鎮圧された。
その後、共和派は1875年に共和政憲法を制定し、第三共和政が確立した。


イタリアでは1830年代にマッツィーニに指導する共和主義的な「青年イタリア」が統一運動に影響を持った。
1848年以後は、サルデーニャ王国が統一運動の中心となった。ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世のもとで首相となったカヴールは、国内の近代化を進めつつ、列国の援助が統一実現に必要だと判断した。
1859年、フランスと協力としてオーストリアを破る。
1860年、共和派のガリバルディシチリアナポリを占領して、サルデーニャに献上。ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世を王とするイタリア王国が成立した。


三月革命後、プロイセンがドイツの統一事業を主導した。
1862年にプロイセン首相となったビスマルクは、議会の反対を押し切って軍備増強を行い(鉄血政策)、66年オーストリアを破り(プロイセンオーストリア<普墺>戦争)、67年に他の22ヶ国をあわせて北ドイツ連邦を結成した。
さらにビスマルクプロイセン・フランス戦争でフランスを破り、プロイセン王ヴィルヘルム1世を皇帝にドイツ帝国を建設した。この戦争でアルザス・ロレーヌ地方がドイツ領になったことで、両国の長年の対立の原因となる。


ドイツ帝国立憲君主国であったが、皇帝の権限や政府・軍部の力が強かった。自由主義者と妥協しながら、政府は保護関税政策を行い、経済発展を遂げた。
工業の発達とともに社会主義運動が強まると、ビスマルク1878年の皇帝暗殺未遂事件を機に社会主義鎮圧法を制定した。その一方、疾病保険や養老保険などの社会政策を実施した。
外交では、ベルリン会議(1878年)、オーストリア・イタリアとの三国同盟(1882年)。


アメリカでは南部で黒人奴隷による綿花・タバコの大農場制度(プランテーション)が成立しており、奴隷制の維持と自由貿易論が強かった。一方、工業地帯の北部では自由な労働力確保のために奴隷廃止論と保護関税論が強く、利害対立が深刻化した。
1860年に北部出身で共和党のリンカンが大統領に当選すると、南部は連邦を脱退して、翌年アメリカ連合国を結成し、南北戦争が起きた(1861-65年)。
リンカンは、西武開拓民に無償で土地を与えるホームステッド法(1862年)や奴隷解放制限(1863年)を発して内外の世論を味方につけ、南北戦争に勝利した。
戦後、大陸横断鉄道の完成(1869年)もあって、飛躍的な発展。また、ロシアからアラスカを買収(1867)。