ランドール・コリンズ『資格社会―教育と階層の歴史社会学』

資格社会―教育と階層の歴史社会学 (1984年)

資格社会―教育と階層の歴史社会学 (1984年)

なぜか駒場と柏にしかない。今は取り寄せもできるが、駒場に行って借りた。

駒場の図書館で思い出すこと。私が大学に入学した時は、学生証とは別に図書館の入館カードがあり、電子端末による貸出も一部しか始まっていなかったと記憶している。そのため、どの本にも巻末には貸出記録が挟まれていた。

夏目漱石の小説『三四郎』の中で、主人公の三四郎が帝大の図書館に入ったところ、どの本にも必ず書き込みがあることに気づいて驚くというシーンがあるが、それと同じようにどの本を開いても必ず貸し出された記録があるということを、当時は確認することができた。





ブールデューの再生産論の細部は、非常に説得力に富む。しかしこのモデルは、教育を基盤とした職業技能に関するテクノクラシー論的解釈や、もしくは階級的優位性に関する生物学的・遺伝論的な解釈さえも、実際には論破していない。事実ブールデューらは、アメリカの社会学者たちが教育機会を拡大する必要性を説くなかで、人種・遺伝論的解釈を初め、テクノクラシー論的要求や穏健な社会改良論的解釈の論拠として、伝統的に用いてきた資料と全く同種のものを提示している。テクノクラシー論とは異なった説明理論の優秀性を示すためには、テクノクラシー論の経験的な論点を反証する直接的な証拠資料が必要なのである。」[14]


剰余価値の大部分を教育に求めるのは、基本的に恣意的である。デニソン(Denison)は、高学歴者がそれに相応しい高収入を得ているという理由で教育起因説を支持し、それを生産性への貢献度に対する報酬と解釈する。けれども、賃金が生産価値を反映するということは、経済学では一般的な前提であるとはいえ、循環論法を用いない限り、賃金は教育の生産性を証明する指標にはなり得ない。」[19]


「熟練技術職の増加と未熟練技術職の現象という職業構造の変化は、アメリカ労働力における教育水準の向上現象を説明するものではない。」[29]


「主要な変数は、すなわち、労働の結果がどの程度に規格化され、どの程度容易に監査できるかである。例えば、単一生産は比較的に未分化な組織をもつ。その革新的で高度に型にはまらぬ労働類型が、厳格な職階制的統制確立に困難だからである。つまり、権力は組織成員間に平等に分散し、横関係的なインフォーマル構造に帰着する。しかしながら大量生産は、反復作業や統制容易な作業に従事する下位労働者を、生産過程各部分の調整活動、業務計画の交渉、それに業務運営上の予測し得ぬ困難な諸問題等にとり組む上位労働者と、鋭く区別することになる。その結果、高度に職階的・複合的な葛藤の多い官僚制機構が形成される。」[33-4]


「生産のテクノロジーと、管理およびコミュニケーションのテクノロジーとは、区別されなくてはならない。後者こそが、その統制者に最高の威信・物質的報酬をもたらす地位と、結局、組織形成上主要な決定を行う権力的地位を与えるという意味で、組織を支配するものなのである。」[36]


「組織の地位継承に関する諸研究も、全く同様な類型を示す。その証拠資料は、空席連鎖(vacancy chains)理論(White, 1970)にみられるごとく、成功が業務能力によるよりも適宜適所に居合わせる要因のほうが大きいことを示している。」[42]


「教育は次の二条件が同時に満たされる場合に、最も重要なものとなる。すなわち、(a)その種の教育が、特定の地位集団における成員資格を最も的確に反映する場合、(b)その地位集団が、特定の組織における雇用を統制する場合である。かくして、学校を基盤として発言する地位集団の分化と、雇用を行う地位集団との適合度が最大のとき、教育は最も重要なはたらきをする。」[49]


ターナーの主張によれば、知能指数は学業成績(success)の原因であるより、動機づけの累積的強化を通じてのその結果(effect)である。知能指数と創造性の両得点が相関しないのは、多分この理由による。両者は居種類の動機づけを示すものである。つまり、前者は学問的(disciplined)・方法論的で、それ故に非独創的課業(work)のための動機づけであり、後者は比較的に自己充足的で、自律的な種類の行動に対する動機づけである。」[64]


「人は職業上の権力や所得を獲得・統制する過程に積極的に関与しており、たんに(もしくは主に)生産性を極大化するために技能を用いているわけではない。このことは、誰も生産労働に関係しないということではなくて、これまでみてきたように、たいていの組織では、とくにホワイトカラー段階では実力の評価が困難であり、また労働者の社会組織が正確な評価を妨げるようかなり意図的に作用している、ということなのである。」[67]


「現実には生産労働のみならず、いわば政治労働というものもまた存在する。この後者は、主として組織経営(organizational politics)を巧みに操作することにおける努力を意味する。生産労働は富の物質的生産に責任をもつが、政治労働は富を占有する条件を整える。」[68]


「以上は三つの方法で行われる。第一に、すでに明らかなように、門番役の統制――つまり就職要件の統制がある。第二に、組織内部に経歴経路の構造――それが袋小路であれ、分離独立的な支部での昇進であれ、転任・交代制であれ、権力の最高位段階への潜在的昇進を許容するもの等であれ、経歴経路の構造がある。第三に、しかも最も一般的に、「地位」それ自体の形成――どの種の労働が統合され、個別的労働者の明確な職務として分離されるべきか。どの程度の人員が各部門に必要と思われるか。どの程度の身分保障と、どんな給与支払方法(出来高払い
時間給・月給・手数料等)がとられるべきか、という「地位」それ自体の形成がある。」[68-9]


「文化史上に属する多様な物質的成果は、しばしばその投資者を失望させるものとなりやすい。もし過度の物質生産能力が発揮されるようになれば、ときには拡大しつつある文化市場が経済の相対的な生産性を促進することもあろう。しかし文化財は結局、支配の資源なのであり、とくに相対的な身分・地位競争からなるインフレーション周期においては、破壊され得ぬ一定の相対的不平等水準で支配様式の具体化を招来しやすいのである。」[92-3]


「以上を要するに、文化市場は物質生産の統制をめぐる階級闘争に対する鍵ということになる。競争の激しい文化市場と経済市場とがいやしくも存在する限り、この闘争におけるある特定競争者の成功は、文化・経済両面ですべての集団の生産と消費との関係によって決定されるものであり、競争者みずからの資源(resources)はそれほどの決定要因ではない。」[94]


「今日のアメリカ社会の構造を説明するには、高度の経済生産性が、教育制度の成果や現代の専門職業形態以外の要因により、決定されることを知ることが重要である。事実、教育制度や専門職は、主として資源豊かな社会が稀に産出し得る明らかに奢侈品なのである。」[102-3]


「アメリカにおける産業社会の基本形態は、比較的教育を受けていない労働力によって実現された。つまり、拡張された教育資格制度と官僚制的雇用形態との結合は後になって現れたものであり、大部分が科学技術上の要請の関連外にあったのである。」[105]


テクノクラシーの精神は、非生産社会が正当化されるためのイデオロギーである。雇用のための教育要件の引き上げ、専門的・技術的学位の増加、限定された職業領域での学位の支配力、資格制度における人事管理の大量な事務的業務――これらのすべては、第三次産業部門を拡大させてきた要因(device)なのである。」[115]


「経済的な生存や覇権のために、集団<プロクツ>として闘争する前もって予定された一連の経済的階級などは存在しない。「労働者階級」や「ブルジョアジー」とは、理論家の頭脳に構成されたたんなる統計的区分にすぎず、唯一の例外は具体的な各人間が現実にそういう諸集団として行動すべく同盟する場合のみなのである。そのような諸集団の形成は、文化的な問題である(議論に長じたマルクス主義理論家が、階級形成を「意識の高揚」による集団動員の問題とみるとき、十分に認識してきたごとく)。」[124]


「明らかに大衆初等教育は、主に産業の要請に応じて創られたものではなく、またその実益を願う大衆の要求に応えて生まれたものでもなかった。それはむしろ、みずからの主張を促進するために必要な政治的同盟やイデオロギー的要請を行った、植民地時代聖職者エリート子孫の政治的影響力・ねばりに応えて創られたものであった。」[139]


「20世紀の中頃までには、大学は「自己成就的予言」を達成していた。「成功」のために大学の学位が、特定はできないが大いに有用と絶えず繰り返すことによって、大学は生存・成長し得て、ついに大学教育は特殊収益をもつとみられるに至ったのである。各専門職業と学者経歴(後者は大学学部教員の絶えざる拡大の故に、ますます魅力あるものになってきた)の両者で、広範な大学院教育が台頭するとともに、学士課程は教育系統の一環となり、他の構成部分である大学院をめざすことによって正当化された。かくして、学士学位がそれ以上の教育と接続しなかった時代から、大学院教育が学部課程を正当化するに至る時代まで、大学は実に巧妙にみずからの古い地位を利用したのである。」[166]


「強固な専門職は、明白な結果を産出し、教え得る実際的な専門技能を必要とする。これによってのみ、誰が訓練されるかを統制することにより、その技能の独占が可能なのである。技能は訓練を必要とするほど困難なもので、結果を産出するに十分に確実なものでなければならない。しかし、あまりに確実すぎてもいけない。そうなると部外者が結果によってその職を判断し得て、その判断によって専門職従事者を統制し得るからである。理想的な専門職は、結果の完全な予測性と完全な非予測性との中間点を占める技能を持つ。」[174-5]


「専門職の独占モデルは、このように自覚的な排他集団――ウェーバーのいう「身分集団」の、より一般的な形成過程の下位事例なのである。」[176-7]


「そのうえ医者や弁護士とくらべて、技術者は皮肉な弱点をもつ。支配集団の形成のための最強の文化資源は、高い情緒的緊張状況で、非常に多くの儀式的印象性を含むものである。しかし技術者は、比較的に非論争的・非情緒的な職務をとり扱い、したがって、政治的・道徳的に印象的な文化を欠いている。それ以上に皮肉なことには、技術者や技術工が彼らの技術の成功そのものによって損をしている点である。彼らの業務の結果は一目瞭然であり、したがって部外者は、たとえその仕事の順序をつねに判断できなくとも、完成した仕事に対する比較的単純な判断によって、技術関係雇用者を統制できる。」[228]


「教育資格の拡張は、この所得革命においていかに現れてきたのか。報酬の多い各専門職が地位を閉鎖して給与を引き上げてきたのは、教育資格の利用によってであったし、他の職業が「専門職化」してきたのも、彼らのこの方法を模倣してのことであった。」[246]


「真の変化は資格制度の廃止にある。これは学校制度の廃絶を意味せず、学校制度が卒業証書・学位の貨幣価値よりは、本来の生産物により、みずからのを維持しなければならぬ状況へ立ち戻ることを意味する。」[257]


「事実上、われわれの社会は、認められる以上に部族社会に近い。合理的な統制についての自画像とは裏腹に、われわれの諸制度は、部族社会の通過儀礼・秘密結社・無慈悲な神と同様、反省的に選択されておらず、われわれの教育・職業の仕組みもそれらに酷似している。その類推をもう少し大規模社会に移すと、数世紀にわたってインドを一連の閉鎖的職業カースト制へと変容させたのと同一諸力、もしくは、中世ヨーロッパを独占的なギルドの組織網たらしめたのと同一諸力に、われわれは屈している。」[264]