ジョン・R・サール『行為と合理性』

行為と合理性 (ジャン・ニコ講義セレクション 3)

行為と合理性 (ジャン・ニコ講義セレクション 3)

ようやく読み終わった。


解説でも書かれているとおり、最終章の飛躍の神経生物学的存在に関する議論は弱いところがあり、しっくり来ない感じがした。
しかし本書の主題である行為における合理性、すなわち「理由がどのようにして行為をもたらすか、そもそも行為の理由とはどのようなものか」というトピックは、社会科学におけるモデルの前提を捉え直す視点ももたらすものだと思った。



「理由の言明はしばしば原因を特定するが、だからといって、そのような場合に原因が理由と同一であることにはならない。なぜならば、理由はつねに自称的存在であるのに対して、原因はふつう出来事であり、事実ではないからである。」[115]


「ある志向的現象がなぜ生じたかの理由による説明に、規範性の制約を導入することは、因果性の制約を取り除くものではない。もちろん、飛躍の存在ゆえ、行為やその他多くの志向的現象にとって、原因はふつう十分条件を与えるものではない。」[119]


「われわれには、行為への理由で欲求に依存しないものを創り出し、認識し、それをふまえて行為する能力がある。実践理性に関して、人間とチンパンジーを隔てる最大の溝はまさにそこにある。」[134]


「選好表を設定することにこそ、真の困難はある。合理的な熟慮における困難の多くは、本当に求めているものは何か、本当にやりたいことは何か、決めるところに存在するのである。」[135]


「古典モデルは、目的のひとそろいが熟慮に先立って与えられていることを前提とする。」[135]


「なるほど、因果の基本概念は、何かを生ぜしめるという概念である。そして、その事例を同定するには、恒常性を前提せねばならないということも正しい。しかし、その要求は認識論的な要求であり、因果の存在そのものに対する存在論的な要求ではない。」[168]


「たとえば、第一次世界大戦の諸原因を探求するとき、われわれはそれがなぜ生じたかを説明したいのであり、普遍的な恒常性を探し求めているのではない。」[168]


「強い利他性を支えるために必要となる一般性は、言語の構造に組み込み済みなのである。」[172]


「主張という形で、充足条件に充足条件を意図的に課すとき、話者はその条件が充足されることへの責任を負うのである。」[190]


「人間という動物の特別な点は、規範性にあるのではなく、言語の使用を通じて公共的な確約のひとそろいを創り出す人間の能力にある。これを人間はふつう、話者が充足条件に充足条件を意図的に課すという、公共的な言語行為の遂行によって行う。[200]


「約束を守る義務は、約束の制度から導き出されるのではない。私が約束をするとき、約束の制度は媒体にすぎず、それは私が理由の創造にあたって用いる道具にすぎない。約束を守る義務は、約束において私は自由かつ自発的に、自分にとっての理由を創り出すという事実に由来する。」[217]


「実践的合理性において理由の果たす役割に関する一般的な説は、少なくとも以下の五つの特徴を理解することを含む。それらは、(1)自由、(2)時間性、(3)自我および一人称的視点、(4)言語および他の制度的機構、(5)合理性である。」[220]


「制度的実在の場合には、存在論が志向性から導き出される。あるタイプのものが貨幣であるためには、人々がそれを貨幣だと考えるのでなければならない。」[226]


「「アクラシア」とは、志向的状態のあいだにある種の対立が存在し、よからぬ側が勝つことにつけられた名である。他方「自己欺瞞」は、そもそもある種の対立の名ではなく、ありがたくない側を抑圧することによって対立を回避することの一形式である。」[258]


「われわれが論じてきた飛躍は、自発的行為にのみ存在する。第一の飛躍は意思決定の理由と意思決定とのあいだに、第二の飛躍は意思決定とその執行とのあいだに、第三の飛躍は行為の開始とそれを完了まで継続することとのあいだに、それぞれ存在する。私の見るところ、根底において、これら三つの飛躍はみな同じ現象の現れである。なぜならば、それらはみな意欲の現れだからである。」[304]


「われわれが表現しようと思っている考えは、意識がシステム的特徴だというものである。意識はシステム全体の特徴であり、コップの水がすみからすみまで液体であるのと同様、文字どおり、システムの関連する箇所すべてに遍在する。意識は個々のシナプスにあるのではなく、それは液体性が個々の分子に存在するのでないのと同じである。」[316]