セネカ『生の短さについて 他二篇』

生の短さについて 他2篇 (岩波文庫)

生の短さについて 他2篇 (岩波文庫)

人は、誰か他人が自分の地所を占領しようとすれば、それを許さず、境界をめぐっていささかでも諍いが生じれば、石や武器に訴えてでも自分の地所を守ろうとするものである。ところが、自分の生となると、他人の侵入を許し、それどころか、自分の生の所有者となるかもしれない者をみずから招き入れさえする。自分の金を他人に分けてやりたいと望む人間など、どこを探してもいない。ところが、自分の生となると、誰も彼もが、何と多くの人に分け与えてやることであろう。財産を維持することでは吝嗇家でありながら、事、時間の消費となると、貪欲が立派なこととされる唯一の事柄であるにもかかわらず、途端にこれ以上はない浪費家に豹変してしまうのである。
[15-6]

セネカの主張に従うと、自然は人間に十分に長い寿命を与えているが、現実には自然の理に従わずに生が浪費されており、人々は自らは忙殺されているとかこつのだ、ということです。

セネカは生の浪費の原因を、あたかも人間が永遠に生き続けるものだと思っており、死すべき存在であることに無自覚であるというところに求めています。本来であれば、徳、すなわち最高善を実現するような生活を求めるために使うべき時間を、他人による支配に委ねたり、あるいは富や快楽へと従属させてしまったりしているという主張がなされます。その結果として、現在の生に対する倦怠感をおぼえ、未来へのあこがれにあくせくとし、気がつけば何の用意もないままに人生の晩年に至ってしまうということです。

これに対して、自らが死すべき存在であることを意識する人々は、不確実な未来を待ち望むことも恐れることもせず、一日一日をあたかもそれが人生最後の日であるかのように管理するのだということが述べられます。ここから、「死ぬ術は生涯をかけて学び取らねばならない」[26]という、やや直感的にはわかりづらい主張が出てきます。


セネカの主張は、ストア派の中でも実践的な面が強いようで、近代哲学に比べるとその曖昧さが批判の対象となるようですが、趣味というか、自分の生活の教訓として読むのには適しているという印象です。