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Roemer (2004) "Equal Opportunity and Intergenerational Income Mobility: Going beyond Intergenerational Income Transition Matricies"

Roemer, John E. "Equal Opportunity and Intergenerational Income Mobility: Going beyond Intergenerational Income Transition Matrices." Pp. 48-57 in Generational Income Mobility in North America and Europe, edited by Miles Corak. New York: Cambridge University Press.

 世代間の所得移動(intergenerational income mobility)についての理論的な検討を行っている論文です。親子での所得の相関は、機会の平等(equality of opportunity)、社会的包摂(social inclusion)といった政策課題において、実証的に重要な指標ですが、それがどれほど高ければ、「高すぎる」と解釈可能なのかという規範的な問いを著者は掲げます。
 まず、著者は機会の平等というものを、「競技場を平らにする」(level the playing field)ものとして、フォーマライズします。そして、このアプローチを構成する5つの要素を挙げます。(1)「対象」(objective)とは、政策立案者がそれへの機会において平等を目指すもので、ここでは所得になります。(2)環境(circumstances)とは、対象を獲得する上で個人に影響するもので、通常は個人ではコントロールができないものです。(3)類型(type)とは、同じ環境を共有する一連の個人を指すものです。(4)努力(effort)とは、対象を獲得することに影響する個人の行為の総体であり、かつそれに対しては社会は責任を負わないようなものです。(5)手段(instrument)とは、対象の価値を変えるために行われる政策で、操作(manipulate)が可能なものです。言い換えれば手段とは、不利な環境にある人々が、有利な環境にある人々と同じ程度に価値のある対象を獲得できるように、その機会を補償しようとするものです。より正確に言うと、機会の平等とは、類型にかかわらず、同程度の努力を行った人々が、同じ程度の可能性で対象を獲得できるという時に達成されるということです。
 機会の平等の観点からは、結果の不平等は、それが異なる環境によってのみ起きている場合に擁護できないものとなり、それが努力によってのみ生じている場合には容認できるものとなります。よって、機会の平等と結果の平等は異なるといいます。また、機会の平等は、すべての個人を飢えさせることで、すなわち誰もが対象を獲得できない時でも達成されるものです。よって、機会の平等を好ましいアプローチとする上では、効率性というものも考えなければならないということです。
 環境として特に考慮されるのは、親の所得です。そして対象との関係を捉える上で、世代間の所得の相関が用いられます。親の所得がどのようにして子どもの所得に影響するのかについて、著者は少なくとも次の4つの経路があるといいます。(1)社会的なつながりの提供。(2)家庭の文化や投資を通じて、子どもの信念(beilef)や技能(skill)の形成。(3)能力(ability)の遺伝。(4)子どもの選好(preference)とアスピレーションの形成。そして、これらは上から、多くの人々が機会の平等を達成しようとする政策に盛り込むものとして、同意する順番だろうとされています。「競技場を平らにする」ことにおいて、家庭による社会的なつながりの差について機会を平等化することに人々は同意しても、家庭が子どものアスピレーションを形成することに補償をするべきではないと多くの人々は考えるだろうということです。また、著者は経済学者として、信念・技能と選好・アスピレーションを区別し、選好とは所得/余暇選好のようなものを例えば想定しているといいます。また、社会学者はこのように分類しないかもしれないとしています。
 ある個人が企業や大学に応募することにおいて、実績(merit)のみが考慮されるべきだと言われる際には、上の(1)である社会的なつながりというものを暗に排除しているということになります(縁故主義の否定)。しかし、業績とは能力を含む可能性があるため、業績主義という考え方は、(3)の能力の遺伝というものを環境として考慮していないことになります。また、教育が機会の平等の手段として強調される際には、公的な教育投資が、主に(2)の家庭の文化による信念や技能の形成が不十分な子どもに対して補償をすることが期待されています。
 なぜ、(4)家庭による子どもの選好とアスピレーションの形成はもっとも劣位に置かれるのでしょうか。これは多くの人々は、大人は自らの選好に対しては責任を持つべきだと考えているからだといいます。個人の選好の大部分が幼少期に植え付けられたものだとしても、それらの選好について理解しているのであれば、個人はそれに対して責任を持っているのだということが強調されています。Dworkin(1981)は、個人がある選好を持っていることに満足しているのであれば、その選好に対して責任があると考えるべきだと言っているそうです。こうした考え方によると、例えば中毒や強迫的な衝動に対しては、個人は責任を持っていないということになります。
 また、著者は世代間の所得移動研究の多くでは、再分配前の所得が対象にされているものの、より望ましいのは再分配後の所得だとしています。再分配後の所得の方が、消費の可能性を示す尺度としてより適切だからとしています。さらに、世代間の所得移動研究が再分配前の所得を用いているのは、手段として公的な教育投資を想定しているからであり、再分配後の所得を対象と考える場合には、手段の中にさらに所得税や所得移転(transfer)を含めることができるとしています。
 次に、著者は数理的なモデルを用いて、機会の平等が達成される条件について検討をしています。個人の所得が個人の能力・選好・類型と、手段の関数であることを想定します。また、個人の選好は、親による影響と自律的に形成されたものの和だとされます。ただし、親による影響を特定化するために、自律的に形成される選好の分布は、どの類型においても同じだと仮定されます。
 こうしたモデル化によって、例えば(1)と(2)を達成するために必要な条件は、すべての個人の能力と親によって形成された選好の組み合わせを考えた際に、ある手段の下で、異なる類型に属する人々の間で所得の分布が平等であるということが導かれます。
 以上のような検討から、著者は世代間の所得移動が完全に平等であることが、(1)から(4)がすべて成り立つという状況に対しての必要条件になっているということを示します。すなわち、「機会の平等」という言葉は、非常にラディカルな意味で定義しない限り、世代間の所得移動を完全に平等化することを意味しないということです。そして、こうしたラディカルな政策は、現状では多くの人々は容認しないだろうとしています。
 しかし、著者は自らの批判は、世代間の所得移動への関心を無効化しようというようなものではないと強調します。現状で利用可能なデータのうちでは、機会の平等を研究する上でこれが最良の方法だからだといいます。しかし、今後の研究は、(2)家庭の文化による子どもの信念や技能の形成、(3)能力の遺伝という面での機会の平等をより検証すべきだとしています。