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Fricke (2003) "Culture and Causality: An Anthropological Comment"

Fricke, Tom. 2003. "Culture and Causality: An Anthropological Comment." Population and Development Review 29:470-9.

 だいぶ前に一度読んだ論文ですが、読みなおしました。すぐに役に立つという類のものではありませんが、興味深いトピックです。

  

  • もし人類学が因果についての議論に独自に貢献できることがあるとすれば、それは文化の研究に特化していることから来るだろう。イベントヒストリー分析において、離散的・連続的なモデルの適用可能性についての統計的なアドバイスがほしいのであれば、人類学者に頼るのは間違っている。
  • Blalockが述べるように、変数間の相関は因果関係を直接的に表しているわけではない。相関とは単に共変動を意味するにすぎないためである。言い換えれば、因果についてのあらゆる主張は、解釈による判定をともなうものである。
  • 文化人類学が人口学的研究に対してもたらし続けている唯一の貢献は、意味に関するものであり、またそれは解釈に関するものである。
  • 文化にともなうジレンマは、外的な力や何らかの行為者が対象を動かすといった因果関係とは異なり、文化が理解の文脈であり、また個人の内部における動機付けだということである。もし文化を外的な力だと見なしてしまうと、その流動性や変化の可能性を説明できなくなる。また、もし文化が共通した理解として人間に内化されたものだということを見落とすと、それが時間的に持続するものであることを見逃してしまう危険がある。
  • このように見ることで、文化は法や規範の集まりであるという、古い決定論的な見方から脱することができる。このような見方を、Hammelは「40年も前の構造機能主義的な概念から抜け出せない、化石の兆候を示したアプローチ」と述べている。
  • Hammelがほのめかしているように、人々が何によって動機づけられ、どのように世界を見ているかについて、頭のなかに入ってゆくことは不可能である。しかし、これは私たちが日常生活を営んでいるのと同じ文脈なのである。
  • ある意味において、文化人類学におけるフィールドワークは、日常における平凡な実践を再現している。文化人類学が試みているのは、文化的な他者の頭の中に入り込もうとする、想像上の行為なのである。
  • 因果関係はそれ自体は観察が不可能なものであるとすれば、文化人類学は代替的な手段をもたらすかもしれない。自然科学でうまくいっている方法は、人間における因果の研究に対しては制約が強すぎる。なぜならば自然科学においては、解釈的なアプローチが示してきたのとは異なり、対象が自己反省的ではなく、意識も道徳も持たないためである。