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England and Kilbourne (1990) "Feminist Critiques of the Separative Model of Self: Implications for Rational Choice Theory"

England, Paula and Barbara S. Kilbourne. 1990. "Feminist Critiques of the Separative Model of Self: Implications for Rational Choice Theory." Rationality and Society 2: 156-71.

 

 第一著者のPaula Englandは、昨年のアメリカ社会学会長ですね。労働市場におけるジェンダー差別の研究で有名であり、女性が多い仕事であることによって価値の引き下げ(devaluation of feminized work)が起きていることなどを主張しています。Paul Allisonとの共著論文は、パネルデータ分析の方法論の面でも興味深かった印象があります。

 本論文は、合理的選択理論の主要な仮定に対する、ラディカルなフェミニズムの立場からの批判となっています。社会学における合理的選択理論の研究では、よく言及される論文のようなので読んでみました。

 本論文では、社会学的な合理的選択理論は、新古典派経済学とほとんど同じ仮定を用いていると批判されています。しかし、この年にColemanの『社会理論の基礎』が出版されたことや、おそらく本論文の批判も踏まえて、その後に少なからぬ発展があったのではないかと思います。

 本論文の批判は全体的に当てはまっていると思うし、勉強になりました。特に、社会学者が「不利」という言葉を用いる際に、効用の個人間比較が可能なことを暗に仮定しているという指摘は、社会階層研究においてもそうではないかと感心しました。しかしながら、ラディカル-文化フェミニズムにおける自己の分離/結合モデルが、どこまで有望な修正をもたらしうるのかは、疑問なところがあります。行為者間の権力や従属ということであれば、この頃にはすでに合理的選択を取り入れた分析的マルクス主義の発展が起きていると思うのですが、本論文では言及がないですね。

 個人的には、Boudonが提唱するような、「認知的なフレーム」に注目して、合理性の仮定を弱める方向性が興味深いと思っています。

 

 

フェミニストによる自己の分離・結合モデルの議論

  • 統合されたフェミニズム理論は存在しないものの、3つの区別が可能である。それらは、リベラル・フェミニズム、社会主義フェミニズム、ラディカル-文化フェミニズムである。そしてこのうち、ラディカル-文化フェミニズムは合理的選択理論の批判において有望である。そのもっとも重要な主張は、「分離した自己」(separative self)と、「感情的に結合した自己」(emotionally connected self)という、異なる自己の捉え方にある。
  • 多くの西洋思想には、前者の「分離した自己」が見られ、かつこれは男性的な要素としてみなされきた。これは政治哲学における古典的なリベラリズムに端を発するものであり、契約主義的な伝統(Hobbs、Locke、Rousseau、Kantなど)においては、「自然状態」から契約による協調状態に移行すると主張されてきた。そして契約の前後においては、男性は分離した自律的な存在であることが想定されてきた。
  • 分離した自己の強調は、発達心理学においても見られ、個別化と成熟は同義であると見なされてきた。Carol Gilliganは、Kohlbergの道徳性発達理論に対するフェミニズムからの批判を提示している。Gilliganの研究によれば、女性の道徳的な推論は、自己と他者の感情的な結合に由来する、責任とケアの倫理にしばしば基づいている。Kohlbergの尺度では、女性は低い得点になりがちである。しかし、これは女性の欠陥によるものではなく、道徳の概念が分離した自己に偏ったものになっているためだと、Gilliganは主張している。
  • フェミニストは、男性において分離した自己が強調され、女性において感情的に結合した自己が強調される必然性はなく、この非対称性が女性の従属的な状態を生み出していると指摘してきた。しかし、この非対称性について、リベラル・フェミニズムは分離した自己を男女双方において賛美するのに対して、ラディカル-文化フェミニズムは、結合した自己に対して同等の価値を与えようとするのである。

 

合理的選択理論における仮定の評価

個人は利己的であるという仮定

  • 合理的選択理論の「理念型」である新古典派経済学には、主に4つの仮定がある。それらは、(a)個人は利己的である、(b)効用の個人間比較は不可能である、(c)個人の嗜好は理論にとって外生的であり、変化することがない、(d)個人は合理的である、というものである。
  • 新古典派経済学は利己的な行為者を想定するものの、何が人々に効用をもたらすのかについて、この理論は何も述べていない。そして、たいていの経済学者は、個人の嗜好によって効用をもたらすものは異なるとみなしている。そのため、社会的な承認や利他主義の嗜好を持つ人々がいることは、新古典派的な仮定と矛盾しない。利己主義の仮定が一般的に置かれる理由の一つは、それなしには経済学者が導き出す数学的な予測が不可能となるためである。
  • 社会学的な合理的選択理論もまた、利己的な行為者を一般的に仮定する。「ただ乗り問題」が集合的行為を困難にするという議論は、この仮定が用いられていることの証拠である。
  • 家族を理論化する際に、利己主義の仮定は、特別な問題を生み出す。というのも、家族内には明らかに利他的行為が存在するためである。たとえば、Brintonは日本の親が娘よりも息子に大学教育の投資を行うことは、部分的には自己利益に基づくものだとしている。多くの日本人は、退職後に子どもからの金銭的な援助に依存する必要がある。労働市場における差別を考慮すると、娘よりも息子がよりよい投資対象となる。この説明は、ある程度に筋が通っている。しかし、もし親が完全に利己的であるならば、子どもの教育への投資よりも、より採算性の高い方法を見つけうるだろう。極端に言えば、もし親が完全に利己的であれば、多くの子どもたちは生まれてこないか、幼くしてなくなっているだろう。Beckerは、もう一方の極限にふれている。彼は父親が完全な利他主義者であり、他の家族成員の効用を、自分自身の効用に取り入れる存在として描いている。これによって、Beckerは家族における単一の効用関数という数学的な単純さを得ることを可能になっている。しかしそのことによって、家族の権力や葛藤の問題を検証することを避けてしまっているのである。
  • 利己的な個人という仮定は、自己の分離的なモデルとも関連している。分離的な自己は、感情的に結合した自己よりも、利己的になりやすいのである。もし、分離的/結合的な自己が、分散を持つものであれば、利己性も一定のものとして見なされるべきではない。

 

個人間の効用の比較は不可能であるという仮定

  • 新古典派経済学者は、効用の個人間比較が不可能であることを、明確に仮定している。つまり、2人の個人の交換において、どちらが全体としてより利益を得るのかはわからないということである。これは、利益を測るための「通貨」が効用であり、効用は根本的に主観的なものとみなされるためである。そのため、効用は顕示選好(revealed preference)を通じて序数的に測ることはできるものの、個人間での比較を可能とするような間隔尺度としては測れないとみなされる。
  • 需要独占や供給独占においては、独占者が交換の際に、競争が成り立つ状況よりも大きな利益を得ることを、経済学者は認識している。しかし、これは独占者が交換における他者よりも多くの利益を得ることを意味してはいない。よって、独占の例においても、効用の個人間比較は避けられているのである。
  • このことから、ある構造的な位置を占める集団が、別の集団よりも有利であると、なぜ経済学者が結論付けないのかを理解できる。こうした結論を下すには、様々な報酬を平均化する必要がある。経済学者はこうした平均化が不可能であるとみなしている。なぜなら、個人は自らの効用関数において、報酬に異なる重み付けを行っているかもしれないためである。こうして、実証的な新古典派理論が、分配の問題における保守的な規範姿勢によくなじむことが説明される。
  • 合理的選択理論の外にいる大半の社会学者は、従属、不利、権力などの言葉を用いる際に、効用の個人間比較が可能であることを暗に想定している。合理的選択理論のミクロ社会学版である交換理論は、権力を強調し、基数的な効用の尺度を仮定することにより、これを測定している。
  • また、Colemanは集合的な制裁を通じた規範の発生を議論しており、より大きな権力を保有する行為者は、より規範に制約されにくいと述べている。もし、個人Aが個人Bよりも大きな権力を持っていることが、個人Aが個人Bよりも欲するものをより手に入れるということを意味するのであれば、権力の比較は効用の個人間比較を行うことを意味する。
  • 合理的選択理論に従う社会学者は、経済学者にくらべて一般的な不利を意味する言葉を用いている。かつ、効用の個人間比較を行っているにもかかわらず、これらの研究は経済学者のものと同様にして、権力の帰結と不平等を十分に強調できていない。
  • 分離/結合についてのフェミニストの議論は、効用の個人間比較の仮定にどのように関連するだろうか。効用の個人間比較が不可能であるという信念は、自己の分離モデルに由来するものである。感情的な結合は共感を促進する。そして共感は、効用の個人間比較を促進する。というのも、他者がある状況においてどのように感じるのかを想像できることは、自己と他者の間の効用の測定基準を変換する可能性を意味するためである。

 

嗜好は外生的であり不変であるという仮定

  • 新古典派経済学は、効用の最大化を行う個人を、分析上の基本的要素としている。個人の嗜好は、こうしたモデルにおいて外生的なインプットである。経済学者は嗜好がどこから来るのかを説明しようとはしない。嗜好は、個人が経済的な力と相互作用することによって変化しうるものとはみなされない。
  • 経済学者は近年、その理論を適用する範囲を、他の社会科学の分野にを広げてきている。そのパラダイムによって、フォーマルな市場だけではなく、人間の行動すべてを説明できると主張されている。しかし、そこではすべての社会的な相互作用、たとえば家族における社会化に対してさえ、嗜好は外生的なものだと主張せざるをえないのである。
  • 社会学的な合理的選択理論においても、嗜好は外生的なものとみなされている。くわえて、この分野の大半の社会学者は、嗜好は変化しないという新古典派的な仮定に従っている。この例外は、Colemanによる規範の発生についてのモデルであり、これは規範が内面化される程度によって、選好が変化することが想定されている。
  • すべての合理的選択理論は、嗜好についての仮定を置かない限り、予測を行うことができない。ほとんどのオーソドックスな経済学においては、これは労働者が所得の最大化を求める一方で、企業が利潤の最大化を求めるという補助的な仮定によって対処されている。しかしこれは、経済学者がその理論の構造内部において保持したい仮定ではないだろう。というのも経済学者は、労働者が所得を代償に、非金銭的な労働条件を考慮に入れることがあるのを知っているためである。
  • フェミニストによる自己の分離モデルは、嗜好が不変で外生的であるという仮定の非合理性について、考える手段を提供する。感情的に分離した自己のモデルにおいてのみ、個人は嗜好を変えることなく、相互作用や交換に従事することが可能である。こうした感情的な分離は、きわめて非現実的である。

 

合理性の仮定

  • 経済学も含めたあらゆる合理的選択理論において、合理性の仮定とは、手段と目的の関係について個人が行う認知的な評価に言及するものである。究極の目的は、嗜好によって選ばれる。個人は認知的な評価を正確に行い、意思決定するというのが、合理性の仮定の核心である。
  • 合理性の仮定についての多くの批判は、個人が正確な計算に必要な情報を欠くことか、この計算を行うための認知的な能力に限界があることに向けられている。経済学者は前者の問題に対して、サーチ理論を発展することで答えてきた。後者の問題は、「限定合理性」の概念をもたらすことになった。しかし、これらの批判はいずれも、自己の分離モデルに対するフェミニストの批判とは、明確な関連を持たない。
  • 自己の分離モデルは、合理性の仮定とどのように関わるのか。ここではフェミニストの批判を、個人間の分離を超えて、人間の性質における二分法へと拡張する必要がある。ここで言う二分法とは、離散的か連続的かを問わず、ある尺度における2つの極が、根本的に分離して対置されていることを指す。「反対の性」という表現に見られるように、男女を対置させて見るのが、こうした思考の例である。また別の例としては、西洋思想は、理性と感情を二分的に捉え、感情に対して理性を優位に置くことを特徴としてきた。リベラル・フェミニズムが、こうした二分法とジェンダーと結びつけることを批判したことはよく知られているが、ラディカル-文化フェミニズムによる二分法自体への批判は、あまり知られていない。
  • 合理的選択理論は、根本的に分離した2つの領域を生み出している。第一に、個人の目的を規定する「嗜好」の領域である。第二に、目的を達成するための手段の計算を行う、認知の領域である。しかし実際には、感情と認知がはるかに混ざり合った領域が存在する。ラディカル-文化フェミニズムによるこうした批判は、合理性の概念の修正を要求するのである。

 

結論

  • フェミニストによる、自己の分離モデルに対する批判を受け入れるならば、合理的選択理論はどのように変わるべきだろうか。まず、利己性/利他性は変数としてみなされるべきである。利己性は定数とされるべきではない。
  • 個人間の効用比較の問題については、基数的な比較の尺度を、実現可能な測定の問題として考えるべきである。これは困難を伴うにしても、不可能ではない。これによって、権力の不均衡の原因と結果について研究することが可能になる。
  • 内生的かつ可変的な嗜好のモデルも発展させる必要がある。たとえば、社会学における「社会構造とパーソナリティ」学派は、嗜好と捉えうるような多くの心理的特徴が、個人の構造的な位置に影響されていることを示してきた。
  • 合理性を仮定することには異論はない。もし、合理性を感情に対置させるのでなければ、合理的選択理論の4つの仮定のうち、これはもっとも問題が小さい。
  • 合理性の仮定を保持するとしても、他の3つの仮定を緩めることは、演繹的な予測性が弱くなってしまうであろう。これはジレンマである。しかし、演繹的な予測性のいくらかは代償としなくてはならないだろうが、その利益はコストを上回ると思われる。