村松秀『論文捏造』

 

論文捏造 (中公新書ラクレ)

論文捏造 (中公新書ラクレ)

 

 

 2000年代前半に起きた、当時ベル研究所の研究員であったヘンドリック・シェーンが起こした一連の論文不正を扱っています。NHKのドキュメンタリーを後にまとめた本で、ところどころに煽り立てるような文体も見られるものの、全体としては綿密な取材に基づいていて勉強になりました。

 不正が調査委員会に認定されてから14年、本書が世に出てからは10年が経っていますが、今でもこの事件はその規模や科学コミュニティに与えたインパクトとしては、際立っています。しかしながら、どのように不正に向き合い、予防・告発・処罰をすべきかということについては、今なお根本的に難しい問題が残り続けていると感じました。

 当時ベル研究所にて、シェーンの上司であったバトログ教授の、インタビューが印象に残りました。

 

「今回の事件から私たちが学ばなければならないひとつのポイントは、『明らかに、捏造は起きる』ということでしょう。非常に頭がよく、科学システムを熟知し、物事の覚えがきわめて早い人間がいた場合、たしかに捏造は起こりえるのです。そして、実際に今回、捏造が起きました。ですから、研究における不正を防ぐためのコントロールを、拡大するほうがいいのかもしれない、ということです。

 今回の、胸が引き裂かれるような経験から、私たちは科学的な取り組みの根底にある信頼の基礎を、新しいコントロールの枠組みで補完していくことを学んだ、と思います。研究所、科学者、ジャーナルなどさまざまなレベルにおいて、科学における倫理的行動の違反をどのように最小限に抑えることができるか、完全になくすことはできないのですから、最小限に抑えるにはどうしたらいいか、そのコントロールについて議論しなくてはなりません。そして、信頼とコントロールのバランスについて、どうしたらいいのか見出さねばなりません。これは事件が残した大きな課題です」

[pp.268-9]

 

  山岸俊男先生がしばしば指摘されていますが、信頼で成り立つシステムは行動にかかる取引費用は小さくて済むので、それが成り立つのであれば越したことはありません。しかし、 実際に不正は起こるので、監視と処罰にどの程度の費用を払うべきかという問題に向き合わざるをえなくなっています。いずれにせよ、マートンが定式化したような、科学の古典的な規範が揺らいでいるのは、確かだと言えると思います。

 もう一つ、本書では「責任」という用語がたびたび用いられていますが、共同研究者の責任とは何かということも考えさせられました。本書の検証では、シェーンの上司であったバトログ教授がもっと早い段階で不正に気づき、自ら告発することはできたのではないかということが指摘されています。そして、またバトログ教授が、その後に特に処罰はされていないことが問題視されています。もし科学における責任というのが、ヴェーバーの言うような、「責任倫理」ということであるならば、意図にかかわらず起こした結果に基づいて何らかの処罰を受けるべきかもしれませんが、現状ではそのような合意された規範はないようにも思います。