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山中伸弥・羽生善治・是枝裕和・山極壽一・永田和宏『僕たちが何者でもなかった頃の話をしよう』

 

僕たちが何者でもなかった頃の話をしよう (文春新書)

僕たちが何者でもなかった頃の話をしよう (文春新書)

 

 

 特に是枝監督の話が読みたくて買いましたが、すべての章が面白かったです。

 

 お招きしたのは、私がよく知っていて、しかも尊敬している方々ばかりであるが、この講演と対談で感じてほしいものは、決して彼らがいかに偉大であるかということではない。端的に言って、あんな偉い人でも、なんだ自分と同じじゃないかということを感じとってほしいというのが、この企画の意図であり、狙いである。

 彼らを天才と奉ってしまっては、それにあこがれたり、近づきたいという思いはたちまち萎んでしまう。なんだ、あんなに偉い人でも自分と同じ失敗や挫折を経験してきたのかと、また将来への不安や焦りも同じようあったのかと、その場で驚き、感じとってほしい。

[p.7]

 というコンセプトであると、企画の永田先生が「はじめに」で書いています。ただし、自分としては単に個々のエピソードや対話を面白く読んだという感じで、「なんだ自分とおなじじゃないか」という感想はあまり抱きませんでした。20歳前後の若者を対象にしていると見られる記述・発言が多く見られるので、自分もその頃に読んだとしたら、違った受け取り方をしたとは思いますが。

 

 「挫折経験」ということでは、是枝監督が初めてドキュメンタリー番組のディレクターを担当した際に、筋書きとは異なった反応が得られてしまい、筋書き通りに「やらせ」で喋ってもらおうとしたところ、カメラマンに怒られて思い直したという話が印象的でした。 

僕の予想と違う現実が起きてしまったとき、そこに本当のドキュメントが生まれるはずだった。それこそを撮るべきだったのに、僕は自分が敷いたレールから外れてしまったその部分は取らずに、「これはダメだ、これじゃ番組にならない」と、自分の敷いたレールのほうに番組を戻してしまった。そして、そのまま放送してしまいました。

[p.119]

 

 是枝 僕はこの仕事を始めたころ、なぜ撮るんだろうという、すごく根本的なことで悩んだことがありました。直接見ればいいじゃないか。見ているものをわざわざ映像に撮ることが、一次的体験ではなくて、二次的な体験に過ぎないんじゃないかとネガティブにしかとらえられなかったんです。けれども、自分で番組をつくるようになってわかったのは、「いや、普段僕ら、全然見ていないじゃないか」ということでした。見えていると思っていたものが見えていなくて、レンズを通してはじめてそれを意識できるようになる。それに気がついたとき、カメラを通して見ることがレベルの低い体験ではないとわかった。それで、この仕事が面白くなってきた。

[pp.138-9]

   昔とある授業で、ドキュメンタリー番組を秒単位で分解し、何がどういうアングルで映っており、BGMやナレーションがどのように入っているかを分析するという作業をやったことがありました。その時はまさに、普段は見ているつもりでも全然見えていないとを感じたことを思い出しました。