井上達夫(2015)『リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください――井上達夫の法哲学入門』

 

 

 覚悟を決めた以上、書名も志摩氏の提案に従った。いまの日本で胡散臭がられているリベラル派に対しても、リベラリズム清算しようとしている勢力に対しても挑発的な書名だが、何よりも私自身に対して挑発的である。この書名は、「お前の擁護しようとしているリベラリズムは胡散臭いリベラルとどこが違うのか、一般読者に分かるように説明してみよ」という、挑発的な「お題」を私に課している。この「お題」は簡単ではないという意味で、挑発的である。 

 

 あとがきに書かれている通り、朝日新聞へのバッシングに代表されるような「リベラル嫌い」が拡がる一方で、安倍政権の右旋回が持つ危うさを持つ人々も増えている中で、リベラリズムの哲学的基礎を平易に解説するという動機になっているようです。そのため、憲法9条や慰安婦などの時事問題にも触れられてはいるものの、あまり多くの分量は割かれていません。ただその中でも、「良心を理由とした拒否を可能とする徴兵制の導入」など、一見すると驚くような主張も出てきて、provocativeな内容になっています。

 ちなみに本書に出てくる、ロールズの『正義論』の新訳版発売記念のシンポジウムは見に行きました。「政治的リベラリズム」以降のロールズの転向について、井上先生が舌鋒鋭く批判されていましたね。また、同じく登壇者であった盛山和夫先生が、「井上さん、あなたのロールズの格差原理の解釈は間違っている」と噛み付いていたのが非常に記憶に残っています(私の浅い理解では盛山先生の主張が正しいように思えましたが)。

 

  • 不公正な格差の是正や社会保障の充実など、福祉国家的な文脈でのリベラルへの支持は大きく失われていない。信用を失っているのは、エリート主義的で偽善的なリベラルであるとか、欺瞞性を強めている護憲派という部分である。
  • リベラリズムの基本的な価値は自由ではなく正義であり、無理に訳するならば「正義主義」が適切である。
  • リベラリズムには2つの起源があり、「啓蒙」と「寛容」。
  • 「政治的リベラリズム」以降のロールズは、リベラルな正義原理を立憲民主主義の伝統をもつ社会の政治的文化に内在する政治的合意に基盤を求めるようになり、不平等な社会でも、一定程度の「節度」があれば許容できる、という大きな後退を見せている。このように抑圧的な体制と妥協するのは、寛容の負の面である。
  • 異なる「正義の諸構想」(conceptions of justice)が共通して志向すべき「正義概念」(the concept of justice)の規範的実質は「普遍化不可能な差別の排除」である。これが達成できているかどうかは、自分と他者が反転したとしても、受け入れられるかどうかという、「反転可能性テスト」によって検証できる。
  • このテストは自己だけではなく他者にも等しく課される。他者が反転可能性テストを自らに適用しないならば、その他者の視点を尊重する必要はない。
  • 個人が持つ理性の傲慢化を批判するという意味での保守主義には共鳴できるが、歴史や伝統に無批判に信頼を置くのは弊害がある。
  • 歴史問題においては過度の自己否定も過度の自己肯定も間違っている。ドイツは日本よりも自らの戦争責任の追求を立派に行ったという「神話」がある。しかし、ドイツは自らの戦争責任を二重の意味で限定している。第一に、責任の主体をドイツ国民ではなくナチスに求めている。第二に、責任の対象はドイツの侵略戦争の相手ではなく、ユダヤ人に限定している。
  • 専守防衛の範囲なら自衛隊と安保は憲法9条に違反しないと主張する「修正主義的護憲派」は、自らが解釈改憲を行っているのだから、安倍政権の解釈改憲を批判する資格はない。「原理主義護憲派」は、非武装中立を主張しながら、自衛隊と安保の現実を事実上容認しており、より悪い。
  • 憲法の役割は、政権交代が起こり得るような民主的体制、フェアな政治的競争のルールと、民主政の下では自らを守れないような被差別少数者の人権保障のためのルールを定めることである。安全保障は通常の民主的討議の場で行われるのが望ましく、そのために憲法9条は「改正」ではなく、「削除」するべきである。
  • 天皇制は主権者国民が自らのアイデンティティのために皇族を奴隷化するという意味で、最後に残された奴隷制であり、廃止すべきである。
  • かつて東大法学部には、「和魂洋才」ならぬ「文魂法才」、すなわち心は文学部だけれど、食えないから法学部に行くことを意味する言葉があった。また法学部では優が3分の2以上だと大学院をスキップしていきなり助手にしてもらえた。これは優秀な学生を官庁に独占させず、研究者としてリクルートするための制度であった。
  • 論理実証主義(logical positivism)は、検証可能な命題、すなわち真であることが証明できる命題のみを云う意味な命題とする検証主義(verificationism)を主張するものの、ポパーはこれを斥ける。なぜならば、神学・形而上学的命題や価値判断が認識的意味を欠くだけではなく、自然科学の法則命題まで無意味になってしまうため。
  • ポパーは検証主義に代えて、反証主義(falsificationism)を提唱する。これは、誰のいかなる主張も可謬性を免れず、徹底的に批判される必要があり、批判的テストに耐えることで暫定的に受容されるだけだという立場につながる。 
  • 可謬主義が想定する客観的なるものは、自分や自分の崇拝者を含めて、誰もそれが何であるかを確知しているとは標榜できない何か、いわば永遠の未知数Xである。
  • 自己の価値判断に対する他者の批判の可能性を閉ざす点で、価値相対主義は、独断的絶対主義と変わらない。
  • 「善き生の構想」は人それぞれであるため、正義の原理はどれか特定の「善き生の構想」に依存することなく正当化されなければいけない。これが善に対する正義の独立性の要請である。また、このように正当化された正義の原理が「善き背生の構想」と衝突する場合には、正義の原理が「善き生の構想」を制約する。これが制約性の要請である。
  • 初期のマイケル・サンデルにおけるコミュニタリアニズムは、リベラルな反卓越主義を批判する卓越主義の現代版である。サンデルによれば、一つの政治共同体には、歴史や伝統の中に埋め込まれたその共同体固有の「共有された善き生の構想」、すなわち「共通善」(the common good)があり、個人は自分が属する共同体の共通善を自己のアイデンティティの基盤にしている。
  • サンデルが、善く生きることは趣味の問題ではなく、倫理的自己陶冶への個人の責任問題であると主張していることは、理解・共感できる。しかし、善く生きることに責任を持つ自己解釈的存在という人間感は、共同体論の「共通善の政治」ではなく、むしろリベラルな反卓越主義を要請する。
  • 1980年代までの「保守」対「革新」という思想的対立軸の下では、日本の思想界においてリベラリズムがまともな位置を占めたことはなかった。リベラリズムはしばしば価値相対主義と混同されるものの、はっきりと違う。
  • 反転可能性による批判から含意されるのは、正義とは、自分の独断や自分の利益を合理化するイデオロギーではなく、ある意味で、自分を批判するとか、自分の首をも占める理念である。そうした意味での正義がリベラリズムの基底にはある。
  • 強盗による脅迫と、法による強制は何が違うのか。正義を企てる法は、「法の指図は正義にかなった理由でジャスティファイできている」ということの承認を、服従する人たちに求めている。
  • リベラルな社会では、「善き生の構想」だけではなく、「正義の構想」自体が多元的に分裂している。しかし、分配的正義の構想は税制に関わってくるため、争いがあるにもかかわらず集合的決定をせざるを得ない。社会の政治的決定と、その産物としての法が、自分の正義の構想から見たら間違っているにもかかわらず、公共的決定の産物として尊重することがいかにして可能なのか。ソクラテスの悪法問題はこのことを問うていた。
  • どの正義の構想を採るにせよ、正義概念が共通の制約になる。正義概念を満たしている限りにおいて、法は「正当性」(rightness)を持たなくとも、「正統性」(legitimacy)を持ち得る。正統性とは、負けたほうから見て、間違ってはいるけれど、自分たちが次の闘争で勝てるまでは尊重できるという法のことである。勝者は自らが敗者の地位に置かれたとしても受容し得るような理由によって、自己の敗者に対する要求が正当化できるか否かを常に自己批判的に吟味せよという要請が正統性保障の指針になる。
  • 「政治的リベラリズム」におけるロールズは、リベラルな社会では、宗教的・哲学的な立場が多元的に分裂しているから、論争的な哲学的立場に依拠しないと受け入れられないような正義原理ではダメだという。そうではなく、「重合的合意」(overlapping consensus)、すなわちどの哲学的・宗教的な教説からも、理由は違うけれど、結論だけは共有できるという、「同床異夢」的なものに基づくという。しかし、立憲民主主義の伝統を持つ社会にしか、こういうコンセンサスは成り立たない。そのためロールズは、「階層社会でも節度ある階層社会ならいい」という主張にまで行き着く。
  • これに対してサンデルは、政治的な価値がきわめて分裂しているゆえに、論争的な哲学的問題にコミットし、自分のモラルコミットメントを正当化しなければいけないと述べる。そのため、ロールズの言う「コンセンサス」はサンデルにとっては、まやかしである。
  • 後期ロールズの「政治的リベラリズム」を批判する上で、サンデルは南北戦争の例を挙げる。正義原理の正当化根拠を巡る哲学的・道徳的論争を回避して「重合的合意」に訴えようとすることで、奴隷制に関してこうした合意がまだ成立していなかった南北戦争直前の時代であれば、奴隷制の廃止を主張したリンカーンではなく、奴隷州と自由州とが共存のために妥協すべきとういダグラスの立場を、ロールズは支持することになるだろうとサンデルは述べる。
  • 英米圏のリベラルな哲学者が、グローバルジャスティスの問題になると途端に消極的になることがある。「コスモポリタニズム」というのが正しいかどうかは別にして、ナショナルアイデンティティは重視しつつも、それを超える規範的な制約はやはりあると考えるべき。
  • 中世において巨大な主権国家が誕生した際に、その制約として人権が生まれたという説明がある。これは間違ってはいないものの、事柄の反面にすぎない。そもそも主権国家をなぜつくったのかというと、教会をはじめとした自立的な社会的諸権力が獰猛であったため。ホッブズにとって、「万人の万人に対する闘争状態」とは、理論的なフィクションではなく、彼が生きた時代の現実であった。個人の基本的な人権を擁護するためには、中間的な社会的諸権力よりも強力な権力が必要であったため、主権国家はつくられた。こう考えると、主権と人権は対立するというよりは、人権が主権の正当化根拠だから、人権による主権の制約というのは、外在的な制約ではなく、主権そのものに内在する制約であると言える。
  • 国連やEU、国際的なNGOなどの国家を超えた組織が様々にできている。しかし、これらの組織は人権保障において国家以上によいパフォーマンスを発揮することは考えられない。なぜならば、国家には何かがあったときに逃げも隠れもできないという、「答責性」(accountability)があるため。本来、アカウンタビリティとは、自分たちの行動によってコストを転嫁されたり害を与えられたりする人たち対して負わなければいけないものであるものの、たとえば国際的な環境保護団体を挙げると、その行動によって負の帰結をもたらされうる国の国民には責任をとらなくてもよくなってしまっている。