井上達夫・小林よしのり(2016)『ザ・議論! 「リベラルVS保守」究極対決』
共通しているのは、ディベートは参加者それぞれがライバルに勝つことを自己目的化したゲームだということ。自分(たち)が勝つためには、ライバルを負かさなければならない。ライバルを負かすことでしか、自分(たち)は勝てない。負かした分しか勝ち取れない。要するに、これはゼロサム・ゲーム(誰かの利得が他の誰かの損失によってもたらされ、利得と損失が「プラマイでゼロ」になるゲーム)だ。
議論はこのようなディベートとは全く異なる。議論の目的は論的に勝つことではなく、立場を異にする者同士が、相互批判的な意見交換を通じて、真理を共に探求することである。
冷戦終結以降、左右の政治・思想的な対立軸が不明瞭になる中で、「自称保守」、「自称リベラル」の双方から叩かれてきた両者が、リベラル・保守の持つ価値観について、共通点・対立点を議論を進める中で深めていくという内容になっています。主な論点は、(1)天皇制、(2)歴史問題、(3)憲法9条・日米安保の3つ。
井上先生の立ち位置や、リベラリズムの原則については2015年の著書で解説されていることの、おおむね繰り返しですね。ただし、リベラリズムの重視する「公正さ」(fairness)を検証するための「反転可能性テスト」のように、現実の状況で具体的に考えると難しい概念も出てきます。ともすれば抽象的で捉えづらくなりがちな議論が、小林氏の保守側からの問いや反論によって、理解が進みやすくなっているという感想を抱きました。反転可能性の帰結として、 ダブルスタンダードの禁止のみならず、フリーライダーの禁止も導かれるというのは、面白かったですね。
天皇制
歴史問題
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福田恆存「白い手、汚れた手」→手を汚していない戦後世代が、戦争に赴いた世代の責任を追求することの欺瞞性;ただし、これは日本人同士の内輪の問題であり、侵略された国からの批判に応えなくていいわけではない
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どうしてオバマの広島訪問時のスピーチを日本人は批判できないのか→自分たちの戦争責任をきちんと決済していないから
憲法9条・日米安保
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「沖縄よ、ガマンしろ」とはっきり言う「親権力」よりも、沖縄に同情しているふりをして、「県外移転」の受け入れには猛反対する「反権力」のほうが、偽善性という点では質が悪い
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誰もが権力性を持っており、その濫用に対する誘惑からは逃れられない;そこで公正な主張をぶつけあうための「政争のルール」が憲法
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「自称保守」が保守したいものがアメリカへの従属構造であるとすれば、そこには何の政治的主体性もない