斉藤章佳(2017)『男が痴漢になる理由』

 

男が痴漢になる理由

男が痴漢になる理由

 

 

 読み終えたのは少し前なのですが、内容を思い出しながら気になった点をまとめてみます。

 

  • 繰り返される痴漢行為の背景には、少なからず依存症の問題があるということで、前に読んだ薬物依存の事例と共通するものがいろいろとあったと思います。たとえば、どちらも「学習されて繰り返される、強迫的な行為」であるという点でしょうか。
  • ただし、薬物依存については使用行為を非犯罪化して治療に専念させたほうが効果があるのが明らかになっているのに対して、痴漢を含む性犯罪の場合には必ず被害者がいるので、被害者を増やさないためにまずは加害者を逮捕しなければならず、また過度に性犯罪を病理化するのは危険であると指摘されています。実際のところ、著者のクリニックにおける経験では、大半の性犯罪者が「逮捕されなければ続けていた」と口にしていることが示されています。
  • 治療の場においても、松本先生の薬物依存の現場では「安心して薬物を使用しながら通院できる環境が重要」と書かれていましたが、本書の著者は痴漢の加害者に対して、人格批判はしないものの、犯した罪や認知のゆがみに対して厳しく接しているという違いが見られました。
  • 最後のあたりでは、痴漢冤罪ばかりを強調して痴漢被害を矮小化しようとする言説の問題点が指摘されています。その指摘は正しいと思うのですが、そこで周防正行監督の『それでもボクはやってない』の影響が挙げられていることが気になりました。この映画は痴漢冤罪自体というよりかは、日本の刑事裁判や人質司法の問題点を描いたものなので、その辺りまで書かないとフェアな採り上げ方にならないのではないかと思いました(まあ、観た人の多くは痴漢冤罪の恐ろしさばかりが印象に残っているのかもしれませんが)。

 

Thelen and Kume(2006)「コーディネートされた市場経済における雇用主間の協調の問題」

 

Thelen, Kathleen and Ikuo Kume. 2006. "Coordination as a Political Problem in Coordinated Market Economies." International Journal of Policy, Administration, and Institutions 19: 11-42. 

 

 伝統的な日本の経営慣行のこれらの2本柱は企業レベルで運営されているため、労使関係は資本主義の多様性の研究で強調されているような種類の雇用主間のコーディネーションには基礎を置いていないように見えるかもしれない。しかしながら、年功賃金と長期雇用慣行は雇用主どうしが(少なくとも大企業の雇用主どうしが)協調している場合にのみ維持可能なのである。たとえば、雇用主が新入社員に対して高い賃金を設定することをお互いに控えることによってのみ、年功賃金システムは存続可能である。言いかえれば、すべての企業が新入社員を相対的に低賃金で雇い、その企業の中でキャリアを経るにつれて給与を上昇させていくことに合意していなければならない。[28] 

 

 この論文の論点は、スウェーデン、ドイツ、日本における雇用主間のコーディネーションの近年の変化を探求するというものであった。それぞれの事例において、現代の市場の発展はある面では特定の(伝統的な)労使関係制度における雇用主の利害を強化していると資本主義の多様性の研究が指摘しているのは、まったく正しい。しかしながら、これらの研究がしばしば不十分であるのは、ある国の文脈の中における雇用主を、根本的に利害が同質的であるとみなしていることであり、そしてその結果として、企業が伝統的な制度へのコミットメントを強化している兆候はすべて制度の安定化への動きであるとみなしてしまっていることである。これに対して本論文で示されたのは、特定の産業・特定の企業における伝統的な制度の中での協調の強化が、実際には他の産業・企業が協調していくことを困難にしているということであり、そのため資本主義の多様性研究がシステムを維持する力とみなしているのとまったく同じ力によって、システムの不安定化が起きているのである。[35]

 

神島裕子(2018)『正義とは何か――現代政治哲学の6つの視点』

 

正義とは何か-現代政治哲学の6つの視点 (中公新書)

正義とは何か-現代政治哲学の6つの視点 (中公新書)

 

 

序章 哲学と民主主義――古代ギリシア世界から

第1章 「公正としての正義」――リベラリズム

第2章 小さな政府の思想――リバタリアニズム

第3章 共同体における善い生――コミュニタリアニズム

第4章 人間にとっての正義――フェミニズム

第5章 グローバルな問題は私たちの課題――コスモポリタニズム

第6章 国民国家と正義――ナショナリズム

終章 社会に生きる哲学者――これからの世界へ向けて

 

  • 序章は古代ギリシアの思想から始まるのですが、1章でロールズの正義論を扱った後で、2章ではロックやアダム・スミスの古典リベラリズムという形で歴史的には遡る形になっているのが面白いなと思いました。確かにロールズを参照点として根源となる思想を振り返るほうが理解しやすいという面がありそうです。本書は著者の大学での授業に基づいているということですが、授業の構成としても歴史的な順序にこだわる必要はないよな、と思ったしだいです。
  • ロールズ以降の正義論の潮流、特にコスモポリタニズム(トマス・ポッゲなど)については基本的なことからわかっていなかったので勉強になりました。『政治的リベラリズム』など後期ロールズの思想とも、要所で関連づけられているので理解が深まりやすかったように思います。
  • 井上達夫先生は『政治的リベラリズム』でロールズの正義理論は大きく後退してしまったという評価をされているようですが、これは政治的哲学者の中で一般的な評価なのかどうか気になっています。
  • アダム・スウィフトは教育機会の均等に関する論文をいくつか読んだことがあるのですが、「機会の平等の観点から、親による子どもへの本の読み聞かせは道徳的に許されるか」という議論が本書で採り上げられていて、一般的な正義論の中でも影響があるのだなと知りました。
  • リバタリアニズムについては、渡辺靖先生の著書を以前に読みましたが、こちらは現代アメリカの複雑な政治・社会状況の中で捉えることが主眼に置かれていた一方で、本書では古典的リベラリズムの延長に位置づけるということで、思想的なバックグラウンドという面ではより理解しやすくなっていると思いました。
  • フェミニズムの章で指摘されている、「ロールズは家族の問題に関してはかなりコミュニタリアンに接近している」、つまり「ロールズにとっては家族は社会が介入すべきではない特別な共同体である」というのは、重要な指摘であるように感じました。ただし、本書の記述だけからだと、ロールズが家族内では財が公正に行き渡るだろうと考えていたのか、あるいは仮に不公正な分配が行われていたとしても社会が介入すべきではないという立場であったのかが、わかりませんでした。

菊池正史(2018)『「影の総理」と呼ばれた男――野中広務 権力闘争の論理』

 

 

 野中の政治を「弱者に寄り添う政治」と評する人がいるが、私は「寄り添う」という、どこか偽善的な生ぬるさのある言葉は、野中にふさわしくないと思う。野中の弱者への関わり方は、言葉だけの同情や、親切ごかしの口利きといった、ありふれた政治のレベルではなかった。それはまさに、「弱者と共に動く」政治だったと思う。 

 フリーライター辛淑玉は野中の政治を「平和のための談合」と評した。野中は二度と戦争をさせないために、権謀術数をめぐらした。その矛盾こそが、「平和であり、そして反戦であり、そして国民を中産階級の国民にしていく」ことを保守し続けるための、野中なりのリアリズムだったのではないか。

 

 昨年の1月に亡くなられた野中広務官房長官を採り上げた本です。著者のテレビ局政治部記者としての経験に基づき、野中氏との個人的なエピソードも交えつつ、その人生が振り返られています。また野中氏と関連して、戦後保守と戦争・平和の関係、小泉政権までの自民党の歴史・権力闘争などのテーマも描かれています。著者自身もあとがきで少し触れていますが、「安倍一強」の自民党と対比させつつ読むと、現代の政治で失われてしまったものについて理解が深まるように思います。

 1章では野中氏の戦争経験が描かれており、やはりこういった体験から紡がれる言葉には迫力を感じます。もう今の時代にはこのような政治家は出てこないのだろうかと思うと、なんとも残念な気持ちになります。

 政治制度に関する記述では、中選挙区制・派閥・談合型政治の功罪などについて関心を持ちながら読みました。素人的には、本来は政権交代を可能にしやすくするための小選挙区制の下で第二次安倍政権のような長期政権が維持されているのをみると、その弊害について少し考えてしまいます。また、小泉元首相の強権的な手法に反対して政界を引退したものの、その後の「安倍一強」の基礎を築いたのは、小渕内閣において公明党との連立を決断した野中に他ならない、という著者の指摘は皮肉ながら興味深いものでした。

Hirsh(1976)位置への人々の競争

 

Hirsh, Fred. 1976. Social Limits to Growth. Cambridge. Harvard University Press

 

 個人的機会と社会的機会の分断はいくつかの理由で起こりうる。たとえば、過剰な汚染や混雑はもっともよく知られた結果だろう。この分断を生み出す一般的な条件のうち、見過ごされてきたものの一つは成果への競争ではなく、むしろ位置への人々の競争である。社会において昇進するためには、自分の同僚の中でより高い位置に移動することでのみ、つまり他者の成果と比較して自らの成果を改善することでのみ可能なのである。もし全員がつま先立ちをしたならば、誰もよく見ることができない。こうした種類の社会的相互作用が存在する場合に、個人の行為は個人の選択を実現するための確実な手段にはもはやならない。つまり、好ましい結果は集合的行為を通じてのみ得られるものであるかもしれない(私たちはみな、明確にあるいは暗黙につま先立ちをしないことに同意する)。その結果、個人の選択と、集合的条項あるいは集合的規制という馴染みのある二分法は瓦解する。自由市場における孤立した個人間の競争は、他の人々への、ひいては自分自身への隠れたコストを伴う。これらのコストは全員に対する超過コストであり、他に好ましい配分の方法がない限りは社会的浪費を伴うものである。しかし、後続する社会的相互作用が考慮されていない個人の需要に対して公的供給が反応するときにも、同様の歪みが生じるかもしれない。[5]

 

橘玲(2018)『朝日ぎらい――よりよい世界のためのリベラル進化論』

 

 

これから述べるように、世界でも日本でもひとびとの価値観は確実にリベラルになっている。リベラルが退潮しているように見えるのは、朝日新聞に代表される日本の「リベラリズム戦後民主主義)」が、グローバルスタンダードのリベラリズムから脱落しつつあるからだ。

 

 戦後の「朝日」的なリベラルはずっと、「愛国=軍国主義」を批判してきた。その結果、「愛国」は右翼の独占物になり、リベラルは「愛国ではないもの」すなわち、「反日」のレッテルを貼られることになった。ここに「朝日ぎらい」の大きな理由があることは間違いない。

 

  • 以前に読んだ井上達夫先生の本がベストセラーになっているように、関心の高まっているテーマなのかなと思います。
  • 進化心理学脳科学の安易な適用が気になるところが多かったですが、リベラルが退潮している(ように見える)ことについての大枠の説明に関しては納得できるところが多かったです。アメリカのトランプ支持やヨーロッパにおける極右政党の台頭との共通点については考えたことがありましたが、日本独特の問題として、リベラル派と日本的雇用による既得権・身分制の結びつきが、若年世代からの支持を失わせている理由であるという分析は自分にとって新しい視点でした。これがリベラルが標榜する普遍的な価値に対するダブルスタンダードになっているということですね。
  • 田中愛治先生たちの調査によって示されている、若年世代における保守とリベラルの位置づけの逆転というのは、単純な分析ながら非常に興味深い知見ですね。ただし、その解釈として本書の著者の強調する世代間の利害対立のみで説明するのは、もう少し詳細な分析が必要であるように思います(既得権益や世代間利害対立の認識が強い若年層における政党イデオロギーの位置づけなど)。
  • 著者自身が非アカデミックな領域で仕事をしてきているからか、近年の保守思想・言説がアカデミックな世界の外で主にリードされてきたことについて、何度か繰り返し記述されていますね。こうした背景と、日本のネトウヨアメリカのトランプ支持に見られるような、エリートに見捨てられたと感じている人々のアイデンティティ問題が親和的であったことが論じられています。アマルティア・センによる、「アイデンティティの単一帰属が幻想である」ことへの批判というのは知らなかったので、ちょっと勉強してみたいところです。

 

Andersen and van de Werfhorst(2010)教育と職業のマッチングにおける技能の透明性と労働市場のコーディネーションの役割

 

Andersen, Robert and Herman G. van de Werfhorst. 2010. "Education and Occupational Status in 14 Countries: The Role of Educational Institutions and Labour Market Coordination." British Journal of Sociology 61(2): 336-55.

 

 強固な職業教育を要素とし、また大規模なトラッキング、トラックへの早期の選抜など高度に階層化された教育システムに特徴づけられる国々は、あまり職業訓練が行われず非階層的な国々にくらべて、教育と職業の強い関係が見られる傾向にある(Allmendinger 1989; Brauns, Steinmann, Kieffer and Marry 1999; Kerckhoff 2001; Shavit and Müller 1998; Scherer 2005)。この知見の理論的な解釈は単純である。つまり、教育システムがより階層化され、より職業に特有なものであると、潜在的な労働者の資格はより透明性の高いものとなり、それゆえ教育と職業のマッチングもより強くなるのである。[338]

 

 つまり、教育と職業のマッチングにとって重要なのは、必ずしも高い水準の階層化ではなく、むしろ正しい訓練が与えられていることである。この観点からすれば、労働市場の特徴、とりわけ雇用関係のコーディネーションが重要な因果的役割を担っているかどうか(Soskice 1994; Culpepper and Finegold 1999; Hall and Soskice 2001; Visser and Hemerijick 1997; Breen 2005)を評価することは重要である。少なくとも、教育システムの特徴の重要性にのみ焦点を当てるだけでは、全体像を描くことにはならないだろう。[339]