2020年4月6日

 

  • 勤務先の大学、院生の授業料免除申請書類に指導教員のコメントとサインが必要なのですね。書くこと自体はやぶさかではないのですが、正直なところあまり意味があるのかなあ(審査にどの程度使われているのか)と思ってしまいました。しかし、他に「学業成績優秀」であることに正当性をもたせるのが難しいということがあるのかもしれません。まだしもGPAを使うべきではないかとも思いましたが、留学生など他大学出身者を比較するのが難しいのでしょうか。
  • なんか研究室がめっちゃ寒いなと思っていたら、今日から集中管理で暖房が入らなくなっていたようです。しばらくの間、20度設定の冷房がガンガン効いていました。しかし4月上旬に切り替わるのはちょっと驚きで、実際本日の最低気温は5度の予想なのですが…
  • 大学生協の商品カタログと一緒に、ゼミ・サークル合宿のパンフレットが入っていて、ちょっと切ない気持ちになりましたね。大学生協も特にトラベル関係の打撃はやはり相当なものでしょうね。

苅谷剛彦・吉見俊哉(2020)『大学はもう死んでいる?――トップユニバーシティーからの問題提起』

 

 

  • 吉見先生が『「文系学部廃止」の衝撃』や、『トランプのアメリカに住む』で人文系の知がどのような意味で役に立つのかや、ハーバードと東大の組織構造の違いなどについて問題提起をされているわけですが、その関心を苅谷先生にぶつけ、苅谷先生がオックスフォードのカレッジの伝統から大学をいかに捉えられるかや、あるいは「(ポスト)キャッチアップ型近代」の概念を紹介することで、日本の知の生産様式、人材養成の歴史的・現代的な特徴について議論に厚みをくわえているというスタイルです。
  • 日本の大学では教授が権限を持ちすぎていることによって、多忙化してしまっていることを吉見先生が指摘されていましたが、苅谷先生はオックスフォードではジョブ・ディスクリプションが明確化されていることで、責任の範囲が定まり、その外になる業務は拒否できていると指摘いました。ジョブ・ディスクリプションの曖昧さという視点は、日本の大学組織のみならず、日本の雇用システム全般の問題とも関連しうるものですね。
  • カレッジとユニバーシティーの関係について、グローバルなアカデミック・キャピタリズムの中での新たな課題に対応するために、ユニバーシティーが役割を強めていくようになった過程が解説されています。日本も、大学院重点化の際にここの学部を横断するような新たな重層構造が形成されるべきだったにもかかわらず、それができなかったというのが吉見先生の批判点です。結局のところ大学教員は保守的で、業務が単純に増えることはやりたがらないので、いかにインセンティブの構造をユニバーシティーがつくっていくのかというのが、2人に共通した問題意識として感じられました。
  • 4章のAI技術の発展の中での人文知の役割について、AIは既存のデータの蓄積の中での連続的な知を扱うものでなので、非連続的な知や価値は生み出せないというのは確かに現状はそうかもしれませんが、AIに対する脅威で指摘されているのはそうした非連続的な知も近未来に生み出すようになる(シンギュラリティ)ということではないかと思います。
  • 5章の外国人教員比率を高めることに関して、承継教員のポストを純増させることなしには難しいというのはその通りだと思いますし、アファーマティブ・アクションの問題を考える際にも重要な視点だと思いました。たとえば、国会議員の女性比率を短期的に大きく高めようとする際に、定員が同じであれば現職の男性議員に立候補を断念してもらう必要があり、それは抵抗が強くなるので、定員を増やすことなしには難しいという意見を聞いたことがあります。
  • 東大のGLP-GEfILという英語ベースのグローバルリーダー育成プログラムの存在は知りませんでした。英語のみの授業で学位がとれるという教養学部のPEAKについては知っていましたが。全学的な改革にくらべてやりやすさもあるでしょうし、東大生全員が英語を使って仕事をしたりいわゆるグローバル人材になったりするわけでもないので、このように少人数のプログラムというのはよさそうですね。しかしやはり資金調達や、部局を超えた連携については大変のようで、吉見先生が企業に折衝に行ったというエピソードはご苦労が感じられました。
  • 良くも悪くも、苅谷先生も吉見先生もエリート的な大学を「あえて」理想化して議論するところがあると、あらためて感じました。こういう点は矢野先生の著作を読んでいるときに、強いコントラストを感じるところでもあります。

マイケル・サンデル(2006=2011)『公共哲学――政治における道徳を考える』

 

 

  • この前読んでいた本で、リベラリズムがその原理を徹底させるならば、同性婚のみならず、複婚(一夫多妻制・一妻多夫制)も認めなければいけないはずであるという事例が出されていて、リベラリズムの限界についていろいろと論じられてきました。サンデルによる本書は、平等主義的リベラリズムリバタリアンリベラリズムの両者において主張される、「正と善を独立させる」、あるいは「重大な道徳問題をカッコに入れること」が困難であるのみならず、むしろ望ましくないことが様々な歴史的・現代的事例(妊娠中絶、幇助自殺、汚染権取引、遺伝子操作など)を通じて論じられています。
  • 公共領域における道徳の役割を回避しようとする際に起こる帰結の一つとして、市場原理や企業の商業主義に侵食されてしまうとして、アメリカの学校の教室における企業のコマーシャルが挙げられています。公共領域における市場原理の徹底に関する批判は、サンデルの別の著作でより詳しく論じられていますね。
  • 「負荷なき自己」は"unencumbered self"、「手続き的共和国」は"procedural republic"の訳のようです。
  • アファーマティブ・アクションについて授業で少し扱おうかと思っているのですが、これを擁護する根拠として、(1)過去の過ちへの償い、(2)社会的に価値ある目的を促進するための多様性の確保という2つを挙げられており、このうち正当化可能なのは後者のみだとサンデルが主張しているのは、参考になりました。ここでも、アファーマティブ・アクションによって達成しようとする道徳的な価値(大学教育の持つ公共的価値とは何か)が避けられないということになります。
  • 南北戦争の時期における各州の奴隷の扱いに関する、エイブラハム・リンカーンとスティーブン・ダグラスの対立は、前に読んだ井上先生の本でも紹介されていました。ロールズの『政治的リベラリズム』では、奴隷制に反対するリンカーンではなく、各州の自律的判断を尊重するダグラスの立場を支持してしまうことになるという批判ですが、ロールズが『政治的リベラリズム』では正の優先性をカント的な人格の構想から切り離してしまっていることがそもそもの問題なのだという点が新たに知れて勉強になりました。
  • 本書の最後の章では、権利志向のリベラリズムに対して、コミュニティの役割を過小評価しているという立場を、一律に「コミュニタリアニズム」と括ることの問題点が取り上げられています。サンデル曰く、正義を善と結びつける方法には大きく2つがあり、正義や善を定義するのはコミュニティの価値観であるというものです。しかし、こうしたコミュニティの多数決主義についてはサンデルは反対をしており、そうではなくもう一つの、正義の原理をそれが資する目的の道徳的価値や内在的善に応じて正当化するという立場を取っています。こうした立場では、必ずしも既存のコミュニティにおいて支配的な価値が正義の原理となるわけではなく、また厳密な意味でコミュニタリアン的でもないと言います。むしろ、目的論的、完成主義的と形容するのが妥当であるとされ、なぜサンデルが自身をコミュニタリアンとレッテルを貼られるのを嫌うのかが本章を読むことでよくわかりました。

 

溝上慎一(2014)『アクティブラーニングと教授学習パラダイムの転換』

 

アクティブラーニングと教授学習パラダイムの転換

アクティブラーニングと教授学習パラダイムの転換

  • 作者:溝上 慎一
  • 発売日: 2014/10/01
  • メディア: 単行本
 

 

  • アクティブラーニングに関する基本理論を一通り学びたいと思い、手に取りました。溝上先生は単に授業の設計・戦略という観点からではなく、情報社会化による知識の質の変化、高等教育の大衆化にともなう学校から職業へのトランジションの変容といった観点から、アクティブラーニングの必要性を説く立場なので、教育社会学的にも興味深いと思います。
  • 溝上先生は一昨年に京大から桐蔭学園に異動しており、大学教育を改革して成果を挙げることへの限界を感じたことが理由の一つのようです。
  • 大学教育・大学改革に関する別の本を今読んでいるのですが、溝上先生のように特定の組織に縛られることなく、流動的にスキルを活かしていくことが、今後の日本の研究者にも求められることなのかもしれないと思いました。

 

  • 本書におけるアクティブラーニングの定義(p.7)

 一方向的な知識伝達型講義を聴くという(受動的)学習を乗り越える意味での、あらゆる能動的な学習とのこと。能動的な学習には、書く・話す・発表するなどの活動への関与と、そこで生じる認知プロセスの外化を伴う。

 

  • アクティブラーニングの2つの構図:受動的学習を乗り越えるという意味でのアクティブラーニングを推進する構図から、単に受動的学習を乗り越えた先の「アクティブ」のポイントをもっと積極的に特定しようとする構図への移行が生じている
  • アクティブラーニングによって講義がなくなるわけではない
  • アクティブラーニング型授業の技法例:ピアインストラクション、LTD話し合い学習法、Problem-based Learning
  • アクティブラーニング型授業の質を高めるための工夫:コンセントマップを用いた評価、授業外時間をチェックする、逆向き設計(backward design)、反転授業(flipped classroom/inverted classroom)

 

偏見とは(オックスフォード社会学事典・第3版)

 

  • A Dictionary of Sociology(Oxford University Press, third edition)による、prejudice(pp. 518-9)の拙訳

 

 偏見とは通常、人や物に対してあらかじめ持たれた好意的・敵対的な意見、あるいは先入観(bias)を意味する。先入観とは否定的なものだけではなく肯定的なものでもありうることを記憶に留めることは重要であるものの、この用語はもっぱら、何らかの集団あるいはその成員に対する否定的あるいは好ましくない態度に言及するものである。偏見は真であるかどうかが検証されているかということよりも、むしろ個人の感情や態度と関係したステレオタイプ化された信念を特徴としている。Gordon Allportの古典的著作であるThe Nature of Prejudice(1954)では、次のように定義されている。「(偏見とは)欠陥がありかつ融通のきかない一般化に基づいた嫌悪感である。感情としてだけではなく、外に示される場合もある。集団全体に向けられる場合もあれば、集団の中の個人に向けられる場合もある」。他の人々にくらべて偏見を持たれやすい外見を有する人々もいる。精神分析理論では、権威主義的パーソナリティ類型では偏見と関連した融通がきかない態度が持たれやすいことが指摘されている。
 1920・30年代に、社会心理学では偏見は非常に注目を浴びた用語となった。この理由の一部には、態度理論の発展への関心(くわえてBogardusの社会的距離尺度など、態度を測定する新たな技術)や、アメリカにおいて広く存在した民族的マイノリティへの敵意や、ヨーロッパにおける反ユダヤ主義の台頭への関心、そしてマイノリティ集団一般への関心といったものが存在した。偏見研究の当初の伝統は2つの主要な著作が出版された時期にピークに達した。これらは、Theodor AdornoらによるThe Authoritarian Personality(1950)と、Gordon AllportによるThe Nature of Prejudice(1954)である。前者は偏見のパーソナリティ基盤に関してもっとも詳細な分析であり、後者は偏見の心理学的、構造的、歴史的な基盤について研究の知見を統合することを試みたものである。多くの研究がこの伝統に従っているものの、偏見という用語はまた社会学の内部で強く批判されてきており、それは特にその個人主義的な意味合いに向けられてきた。
 社会学的な定義はまた、偏見とは合理性、正義、寛容などの社会的規範に対する侵害として規定する傾向にある。過剰な一般化、予断、個人間の差異を考慮することの拒否、そしてステレオタイプ化された思考は、すべて合理的な思考に反する。同様にして、偏見による正味の効果が、値しないような何らかの不利を個人あるいは集団に生じさせるのであれば、偏見とは本質的に不公正なものである。偏見はまた不寛容と、さらには人間の尊厳の侵害を含むものである。Zygmunt BaumanはThinking Sociologically(1990)において、偏見は道徳のダブルスタンダードに帰結することを示唆している。内集団の人々が権利として受けるに値するものが、外集団の人々に行われた場合には特別のはからいや慈善行為になるのである。Baumanはさらに、「もっとも重要なのは、集団外の人々への敵意は、道徳的良心と衝突しないようだ」と主張している。どちらの側を引き受けるかによって、まったく同じ行為が異なった名前で呼ばれ、大きな称賛あるいは非難を呼ぶ。ある個人による解放の行為が、別の個人によるテロ行為になる。
 偏見は内集団と外集団の存在に対する帰結と強化であり、それは「やつら」と「われわれ」の区別を体現している。内集団と外集団への態度は本質的に関連している。なぜならば、内集団への感情は外集団への感情に帰結し、逆も同様であるためである。片方の側は、もう片方へ反対しているという事実によって自らのアイデンティティを引き出していると言うこともできるだろう。この意味において、外集団は内集団の結合と情緒的安定のために必要なのであり、そして外集団とは創作される必要があるものなのかもしれないのである。古典ではあるものの道徳的に不穏な事例として、Muzafer SherifとCarolyn SherifがAn Outline of Social Psychology(1956)において、内集団と外集団がいかに実験的につくりだされるかを示している。著者たちは少年キャンプの活動において、特別につくられた2つのクラブが互いに報酬を競わなければならないように仕掛けをつくった。はじめの時点では互いのクラブに同数の友人が存在したにもかかわらず、少年たちはすぐに敵意とステレオタイプを相手のクラブに持つようになった。著者たちは、ステレオタイプとは学習されるものというよりはむしろつくり出されるものであると結論づけている。
 敵が近くにいる場合に、集団は結束を固める。偏見は敵の悪行を誇張することで、正義と寛容の規範が働かなくなることをより確実にする。偏見は常に何らかの敵対行為に帰結するわけではないものの、偏見が現れたときには(少なくとも)忌避、あるいは差別、さらにはホロコーストのような虐殺にまで及びうる。 

 

Abbott(1997)「曖昧の7つの型」

 

Abbott, Andrew A. 1997. "Seven Types of Ambiguity." Theory and Society 26(2): 357-99.

 

  • 研究会で読んだやつです。ある種のメタ分析として社会学とでは先駆的な事例に位置づけられそうですが、通常メタ分析がメタレベルでの何らかの客観的な結果を得ようとするのに対して、本論文は通常の実証分析では無視されている曖昧性を抽出しようとしています。

 

 

イントロダクション

  • 本論文の目的は、通常は実証主義の可能性を妨げると考えられている現象を「実証的に」分析すること;つまり、複数の同じ基準では測れない出来事の意味についての分析である
  • この論文において「実証主義」(positivism)とは社会的現実を何らかの曖昧ではない形で測定できるという考え方を指す;つまり、「実証主義」とはここでは「測定」であり、より一般的な概念である定量的分析や因果主義的思考とは区別される
  • 「測定」(measurement)とは、社会的現実のある側面の違いに関して、フォーマルな関係を作り出すことである
  • 「フォーマライゼーション」とは、複雑な物事について、性質がよりよく知られているもっと単純な物事によって表すことを指す;測定はフォーマライゼーションの下位概念である

 

7つのタイプの曖昧さ

  • 通常の実証主義モデルでは、観察可能な指標(indicators)が観察不可能な概念(concepts)を測定すると想定する
  • 概念間の関係は何らかの順序に従っているという意味で構文的(syntactic)関係である;これはパス図に似ている
  • 概念→指標の関係は意味論的(semantic)関係である
  • 指標間の関係も構文的関係であるが、これは純粋に数量的なものであり、相関係数自体には特定の性質や方向はない;つまり、「因果の方向」はすべて研究者によって概念レベルにおいてもたらされる
  • 概念レベルの上にはナラティヴのレベルがあり、様々な行為者による行為がこのレベルで起きることで概念レベルの関係が生まれる;概念とナラティヴのレベルの関係は意味論的であるが、概念レベル・指標レベルの関係よりもはるかに複雑である
    • 意味論的曖昧さ(semantic ambiguity)→1つの指標が複数の概念と結びついていること
    • 位置の曖昧さ(ambiguity of locus)→ある指標が異なる社会集団の性質を示すこと(離婚率が示すのは家族の変化かコミュニティの変化か)
    • 構文的曖昧さ(syntactic ambiguity)→ある指標が概念レベルでは分析者によって異なる因果関係を表すこと
    • 持続的曖昧さ(durational ambiguity)→ある指標の示す対象の時間的な継続性がわからないこと
    • ナラティヴの曖昧さ(narrative ambiguity)→ある概念レベルの関係を示すナラティヴが複数あること
    • 文脈的曖昧さ(contextual ambiguity)→ある指標が研究によって異なる変数群(意味の文脈)と結びつくこと
    • 相互作用的曖昧さ(interactive ambiguity)→ある指標の意味が、それを解釈する人々との相互作用によって異なる捉えられ方をすること

 

指標とそれに関連する概念

  • GSSに含まれる宗教的強度(religious intensity)の変数を用いる
  • 155の論文を、(1)1980年以前、(2)1980~1984年、(3)1985~1989年、(4)1989年以降の4つの時期に区分
  • 155の論文には2,432個の可能な変数のうち774個の異なる変数が使用されている
  • 「変数間の近さ」を基準にしてクラスター分析を行ったところ表1のようになった;この変数の距離はJaccard係数により、2つの変数が同時に表れた論文の数を、少なくとも片方が表れた論文の数で割ったものである
  • 興味深いことにこの分析ではいずれの宗教変数も互いに近くならなかった

 

変化する宗教的強度の領域

  • 同じくJaccard係数を使用し、今度は2つの論文が同じ変数のセットを用いる傾向にあるかどうかを分析する(2つの論文に共通に表れた変数の数を、2つの論文に表れた変数の合計で割る)
  • 表2のとおり、1980年以前の論文は8つのクラスターにわかれた
  • 表2の最終列からわかるように、それぞれのクラスターは論文の主題についての手がかりとはあまりならない(例外はクラスター1);この使用変数のパターンと概念的関心の関連の薄さは、文脈的曖昧さの証拠である
  • 宗教的強度の変数は一部の研究では宗教全般を表しており、他の多くの研究では礼拝と組み合わせることで、態度と行為を区別している;これは意味論的曖昧さの証拠である
  • 中絶の変数によって構成されたクラスター7では、中絶が従属変数だったり、子どもの有無を規定する要因であったり、単に政治行動に関連していたりと、構文的曖昧さもみられる
  • これらのクラスターは「研究群」(literatures)と呼ばれるものの端緒と言えるかもしれない
  • 上述したような3つの曖昧さを考慮すると、研究群とは特定の主題、特定の変数群、あるいは特定の方法で用いられた特定の変数群というように異なった定義が可能である;研究群と通常呼ばれているものは、大部分はレビュー論文によって回顧的につくられているのだろう
  • 表3のとおり、1980~1984年の論文は10のクラスターにわかれた
  • 政治的寛容性の研究は相互作用的曖昧さの例を示している;GSSでは様々な社会集団に属する人々が声を上げる権利を持つかどうかを尋ねている
  • しかし、左派的な人々が一般的に寛容的な態度をとる集団の変数がより多く用いられる傾向がある;つまり対象者は左派・右派の両者が強調された文脈で回答をしているものの、こうした相互作用的な文脈が除かれて研究者が自由に解釈をしてしまっているのである
  • 構文的曖昧さはより目立っている;以前の時期には宗教的強度は独立変数としてもっぱら用いられていたものの、従属変数・中間変数など様々な用いられかたをしている
  • 宗教的強度を安定的な性格特性として扱っている研究には、ナラティヴの曖昧さと持続的曖昧さもあると言える
  • ここでの目的は、何らかの適切な方法を当てはめることで正しい答えが得られるということではなく、実証研究を注意深く読むことで社会生活に予想される曖昧な複雑さが見出せると示すことなのである
  • ここで見られたのは、ナラティヴの曖昧さと持続的曖昧さによって強化された相互作用的曖昧さと構文的曖昧さであり、これらは意味と解釈のねじれから生じている;この文脈では、少なくとも共通した変数の機械的な現象という意味での「研究群」は不可能であるように思われる
  • 表4に示したのは1985~1989年の研究の分類結果であり、10のクラスターにわかれた
  • 一貫した研究群は、ある中核的な変数群が他の変数群によって強化されることでつくりだされると予想されるかもしれない;しかしこのデータの中では、あるトピックに関して時間が経つにつれて使用される変数の数が増えるという傾向は確認されなかった
  • クラスター10の研究Jは位置の曖昧さを示している;この研究は産業レベルの分析であり、すべての予測変数は個人ではなく産業の特性として測られている;この文脈では宗教的強度の変数も集団の特性となっているのである
  • 3つ目の時期では位置的曖昧さに初めて直面したものの、これは研究群がより明確に特定された事例ということもできる;しかし単純な結果からより「複雑な」方向へ研究群が変化していると言える一方で、これは単に部分的な構文的曖昧さをより大きな文脈的曖昧さに取り替えたものにすぎないようにも見える
  • 表5に示したのは1990年以降の研究で、7つのクラスターにわかれた
  • 最期の時期は宗教変数の複雑さが増しており、これはおそらく宗教的コミットメントに関する研究群の成熟の兆候である
  • この時期にはナラティヴの曖昧さに関して興味深い事例である;宗教的コミットメントは教会の際立った特徴から説明される場合もあれば、個人の神秘的体験とされる場合もあり、また産業レベルの特徴を背景としている場合もある
  • これらは位置の曖昧さとの緊張関係とともにナラティヴ的曖昧さが表れている興味深い例であり、それぞれの研究を組み合わせることで曖昧さを解くヒントも示唆される

 

要約と結論

  • 第一に、宗教的強度それ自体に関して、次第に複雑な研究が生まれてきていることがわかる;第二に、こうした宗教的強度を中核とした研究以外に、宗教的強度は様々な文脈において様々な役割を担っている
  • 研究群の発展に関するヒントは得られたものの、一貫した研究群というものは見出されない;一貫した変数のグループは必ずしも一貫したトピックを予測しないのである;研究者は既存研究に対して単にいくつかの変数を追加しているのではなく、まったく新しい変数のクラスターを追加しているのである
  • ここで挙げた様々なタイプの曖昧さは様々な研究の間のすきまの中に消えてしまっている;このことにあえて目をむけないことで、実証主義は可能になっている
  • 実証主義者が困難で不可視であるとしてきた曖昧さについて、実証主義者の研究を注意深い用いることで可視化できる
  • すべての科学研究の「発展」は、ある形の曖昧さを別の曖昧さに取り替えることで成り立っている;今後必要なのは、こうした終わりのない曖昧さの変化が何らかの意味で実際に進歩をもたらしているかどうかに関するフォーマルな理論である

 

芦田宏直(2019)『シラバス論――大学の時代と時間、あるいは〈知識〉の死と再生について』

 

シラバス論:大学の時代と時間、あるいは〈知識〉の死と再生について

シラバス論:大学の時代と時間、あるいは〈知識〉の死と再生について

 

 

  • 生協で平積みになっていて面白そうだったので買ってみました。著者の先生が以前からブログに書きためてきた文章を書籍化したもののようで、かなり分厚くトピックも多岐にわたっています。全部は大変なので、とりあえず1,2章まで読みました。
  • 大学設置基準の大綱化以降の大学改革・授業改革に対して展開されている批判はすべてがあたっているとは思いませんが、本書の中心的な主張である、「シラバスをコマシラバスへと転換させる必要性」に関しては、説得的でありかなり勉強になりました。
  • 従来型のシラバスを「概念概要」型のシラバスと形容し、授業を行うため、あるいは学生の理解度を測るための指針にまったくなっていないことが批判されます。これに対してコマシラバスとは、「時間」型のシラバスとされており、各回の授業においてどのような内容を教えるかを細目レベルで設定し、どのように展開するかを書き記したものとされています。
  • あるいは著者の言い方を用いると、コマシラバスとは「使う」シラバスであり、これに基づいて各回の授業は進められるということです。
  • 授業の進め方については自分自身まだまだ手探りな部分が多いのですが、たしかにこのようなコマシラバスをつくると、毎回の授業の見通しがかなりよくなりそうだという気がします。来年度の授業を準備する上で、本書で紹介されている例を参考に行ってみようと思いました。