クロード・スティール(2010=2020)『ステレオタイプの科学――「社会の刷り込み」は成果にどう影響し、わたしたちは何ができるのか』

 

 

  • どうも自分はマルチタスクが苦手で、つまり目の前の作業にかかりきりになってしまうことがよくあるので、授業準備と大学関係業務と研究を並行してどう進めていくのかという点で、まだまだ課題を感じます。
  • これも授業に関連して買った本ですが、定期的なインプットを続けられるようにしていきたいですね。

 

  • 原題のWhistling Vivaldiとは、ニューヨーク・タイムズのコラムニストであったブレント・ステープルズという人が若い頃に、道を歩いている時に自分が黒人男性であるということで脅威を持たれないように、ヴィヴァルディの曲を口笛で吹き、自分は高尚な白人文化を持っているように振る舞うことで、周囲の人々の緊張が解けていくのを感じたというエピソードに基づいているようです。
  • 人をある種の固定観念に基づいて見るときの鋳型である「ステレオタイプ」について、あるステレオタイプに自分が晒されるのではないかという「ステレオタイプ脅威」が人々の様々なパフォーマンスに影響するという社会心理学の実験結果をまとめたものになっています。
  • このステレオタイプ脅威とは、ある社会的アイデンティティを持つ人々が自らの望むことを実現する上で対処しなければならない状況という、「アイデンティティ付随条件」の1つとして捉えられ、これによってテストの成績の男女差や人種間の社会的分断をも説明する要因であるという主張されます。ただし、ステレオタイプ脅威とは状況依存的で、人々がステレオタイプ脅威を気にしなくてもよい状況を人為的に作り出すことで、パフォーマンスへのネガティヴな影響も抑えられるという証拠や、そこからのインプリケーションも示されます。
  • 様々な実験研究に関して、著者自身がどのような批判を受けてきたかなど、対立仮説を丁寧に退けていくプロセスが記述されており、非専門家を念頭に置いて書かれた本でありつつも、社会心理学の研究デザインについていろいろと学べる構成になっていました。

 

雑多なメモ

  • 黒人学生は、SATの成績が同レベルの白人学生に比べて、大学での成績が振るわないという事実
  • 数学のテストが始まる前に、「これから受けてもらうテストでは、女性の成績はいつも男性と同じです」という説明をくわえたグループでは、女子学生の点数は基礎学力が同程度の男子学生と差がなくなった
  • 自分が所属する集団に関するネガティヴなステレオタイプを追認するリスクがなくなることで、成績不振が消えた
  • ステレオタイプ脅威は、差別などの悪意が存在しなくても生じる可能性がある
  • 付随条件(contingencies)とは、行動主義心理学に由来する条件で随伴性とも呼ばれる→ある行動がどのように評価されるかが、その環境にいる人々の行動を規定するようになるという考え方
  • アイデンティティと関連する行動や結果を変えたいなら、そのアイデンティティの内的兆候を変えるのではなく、その内的兆候が適応している環境を変えることに力を注ぐべきである
  • アフリカ系アメリカ人政治学」の授業に出席する白人学生の心理状態に見られるように、ステレオタイプ脅威は状況次第で誰でも経験しうるものである。

 

 

ハドリー・ウィッカム&ギャレット・グロールマンド(2017=2017)『Rではじめるデータサイエンス』

 

Rではじめるデータサイエンス

Rではじめるデータサイエンス

 

 

  • 以前にも一度読んだのですが、あらためて一通り動かして、ようやくある程度は使えるようになってきました。dplyrでパイプ演算子を使うと非常に直感的でわかりやすいですね。
  • 本書の出版後にtidyrが更新されているようで、pivot_longer()の使い方についても少し調べました。
  • R Markdownで日本語を含むpdfを出力する設定に少々手惑いましたが、いちおうできるようになったので、授業の資料もこれで作っていきたいと思います。

 

2020年4月6日

 

  • 勤務先の大学、院生の授業料免除申請書類に指導教員のコメントとサインが必要なのですね。書くこと自体はやぶさかではないのですが、正直なところあまり意味があるのかなあ(審査にどの程度使われているのか)と思ってしまいました。しかし、他に「学業成績優秀」であることに正当性をもたせるのが難しいということがあるのかもしれません。まだしもGPAを使うべきではないかとも思いましたが、留学生など他大学出身者を比較するのが難しいのでしょうか。
  • なんか研究室がめっちゃ寒いなと思っていたら、今日から集中管理で暖房が入らなくなっていたようです。しばらくの間、20度設定の冷房がガンガン効いていました。しかし4月上旬に切り替わるのはちょっと驚きで、実際本日の最低気温は5度の予想なのですが…
  • 大学生協の商品カタログと一緒に、ゼミ・サークル合宿のパンフレットが入っていて、ちょっと切ない気持ちになりましたね。大学生協も特にトラベル関係の打撃はやはり相当なものでしょうね。

苅谷剛彦・吉見俊哉(2020)『大学はもう死んでいる?――トップユニバーシティーからの問題提起』

 

 

  • 吉見先生が『「文系学部廃止」の衝撃』や、『トランプのアメリカに住む』で人文系の知がどのような意味で役に立つのかや、ハーバードと東大の組織構造の違いなどについて問題提起をされているわけですが、その関心を苅谷先生にぶつけ、苅谷先生がオックスフォードのカレッジの伝統から大学をいかに捉えられるかや、あるいは「(ポスト)キャッチアップ型近代」の概念を紹介することで、日本の知の生産様式、人材養成の歴史的・現代的な特徴について議論に厚みをくわえているというスタイルです。
  • 日本の大学では教授が権限を持ちすぎていることによって、多忙化してしまっていることを吉見先生が指摘されていましたが、苅谷先生はオックスフォードではジョブ・ディスクリプションが明確化されていることで、責任の範囲が定まり、その外になる業務は拒否できていると指摘いました。ジョブ・ディスクリプションの曖昧さという視点は、日本の大学組織のみならず、日本の雇用システム全般の問題とも関連しうるものですね。
  • カレッジとユニバーシティーの関係について、グローバルなアカデミック・キャピタリズムの中での新たな課題に対応するために、ユニバーシティーが役割を強めていくようになった過程が解説されています。日本も、大学院重点化の際にここの学部を横断するような新たな重層構造が形成されるべきだったにもかかわらず、それができなかったというのが吉見先生の批判点です。結局のところ大学教員は保守的で、業務が単純に増えることはやりたがらないので、いかにインセンティブの構造をユニバーシティーがつくっていくのかというのが、2人に共通した問題意識として感じられました。
  • 4章のAI技術の発展の中での人文知の役割について、AIは既存のデータの蓄積の中での連続的な知を扱うものでなので、非連続的な知や価値は生み出せないというのは確かに現状はそうかもしれませんが、AIに対する脅威で指摘されているのはそうした非連続的な知も近未来に生み出すようになる(シンギュラリティ)ということではないかと思います。
  • 5章の外国人教員比率を高めることに関して、承継教員のポストを純増させることなしには難しいというのはその通りだと思いますし、アファーマティブ・アクションの問題を考える際にも重要な視点だと思いました。たとえば、国会議員の女性比率を短期的に大きく高めようとする際に、定員が同じであれば現職の男性議員に立候補を断念してもらう必要があり、それは抵抗が強くなるので、定員を増やすことなしには難しいという意見を聞いたことがあります。
  • 東大のGLP-GEfILという英語ベースのグローバルリーダー育成プログラムの存在は知りませんでした。英語のみの授業で学位がとれるという教養学部のPEAKについては知っていましたが。全学的な改革にくらべてやりやすさもあるでしょうし、東大生全員が英語を使って仕事をしたりいわゆるグローバル人材になったりするわけでもないので、このように少人数のプログラムというのはよさそうですね。しかしやはり資金調達や、部局を超えた連携については大変のようで、吉見先生が企業に折衝に行ったというエピソードはご苦労が感じられました。
  • 良くも悪くも、苅谷先生も吉見先生もエリート的な大学を「あえて」理想化して議論するところがあると、あらためて感じました。こういう点は矢野先生の著作を読んでいるときに、強いコントラストを感じるところでもあります。

マイケル・サンデル(2006=2011)『公共哲学――政治における道徳を考える』

 

 

  • この前読んでいた本で、リベラリズムがその原理を徹底させるならば、同性婚のみならず、複婚(一夫多妻制・一妻多夫制)も認めなければいけないはずであるという事例が出されていて、リベラリズムの限界についていろいろと論じられてきました。サンデルによる本書は、平等主義的リベラリズムリバタリアンリベラリズムの両者において主張される、「正と善を独立させる」、あるいは「重大な道徳問題をカッコに入れること」が困難であるのみならず、むしろ望ましくないことが様々な歴史的・現代的事例(妊娠中絶、幇助自殺、汚染権取引、遺伝子操作など)を通じて論じられています。
  • 公共領域における道徳の役割を回避しようとする際に起こる帰結の一つとして、市場原理や企業の商業主義に侵食されてしまうとして、アメリカの学校の教室における企業のコマーシャルが挙げられています。公共領域における市場原理の徹底に関する批判は、サンデルの別の著作でより詳しく論じられていますね。
  • 「負荷なき自己」は"unencumbered self"、「手続き的共和国」は"procedural republic"の訳のようです。
  • アファーマティブ・アクションについて授業で少し扱おうかと思っているのですが、これを擁護する根拠として、(1)過去の過ちへの償い、(2)社会的に価値ある目的を促進するための多様性の確保という2つを挙げられており、このうち正当化可能なのは後者のみだとサンデルが主張しているのは、参考になりました。ここでも、アファーマティブ・アクションによって達成しようとする道徳的な価値(大学教育の持つ公共的価値とは何か)が避けられないということになります。
  • 南北戦争の時期における各州の奴隷の扱いに関する、エイブラハム・リンカーンとスティーブン・ダグラスの対立は、前に読んだ井上先生の本でも紹介されていました。ロールズの『政治的リベラリズム』では、奴隷制に反対するリンカーンではなく、各州の自律的判断を尊重するダグラスの立場を支持してしまうことになるという批判ですが、ロールズが『政治的リベラリズム』では正の優先性をカント的な人格の構想から切り離してしまっていることがそもそもの問題なのだという点が新たに知れて勉強になりました。
  • 本書の最後の章では、権利志向のリベラリズムに対して、コミュニティの役割を過小評価しているという立場を、一律に「コミュニタリアニズム」と括ることの問題点が取り上げられています。サンデル曰く、正義を善と結びつける方法には大きく2つがあり、正義や善を定義するのはコミュニティの価値観であるというものです。しかし、こうしたコミュニティの多数決主義についてはサンデルは反対をしており、そうではなくもう一つの、正義の原理をそれが資する目的の道徳的価値や内在的善に応じて正当化するという立場を取っています。こうした立場では、必ずしも既存のコミュニティにおいて支配的な価値が正義の原理となるわけではなく、また厳密な意味でコミュニタリアン的でもないと言います。むしろ、目的論的、完成主義的と形容するのが妥当であるとされ、なぜサンデルが自身をコミュニタリアンとレッテルを貼られるのを嫌うのかが本章を読むことでよくわかりました。

 

溝上慎一(2014)『アクティブラーニングと教授学習パラダイムの転換』

 

アクティブラーニングと教授学習パラダイムの転換

アクティブラーニングと教授学習パラダイムの転換

  • 作者:溝上 慎一
  • 発売日: 2014/10/01
  • メディア: 単行本
 

 

  • アクティブラーニングに関する基本理論を一通り学びたいと思い、手に取りました。溝上先生は単に授業の設計・戦略という観点からではなく、情報社会化による知識の質の変化、高等教育の大衆化にともなう学校から職業へのトランジションの変容といった観点から、アクティブラーニングの必要性を説く立場なので、教育社会学的にも興味深いと思います。
  • 溝上先生は一昨年に京大から桐蔭学園に異動しており、大学教育を改革して成果を挙げることへの限界を感じたことが理由の一つのようです。
  • 大学教育・大学改革に関する別の本を今読んでいるのですが、溝上先生のように特定の組織に縛られることなく、流動的にスキルを活かしていくことが、今後の日本の研究者にも求められることなのかもしれないと思いました。

 

  • 本書におけるアクティブラーニングの定義(p.7)

 一方向的な知識伝達型講義を聴くという(受動的)学習を乗り越える意味での、あらゆる能動的な学習とのこと。能動的な学習には、書く・話す・発表するなどの活動への関与と、そこで生じる認知プロセスの外化を伴う。

 

  • アクティブラーニングの2つの構図:受動的学習を乗り越えるという意味でのアクティブラーニングを推進する構図から、単に受動的学習を乗り越えた先の「アクティブ」のポイントをもっと積極的に特定しようとする構図への移行が生じている
  • アクティブラーニングによって講義がなくなるわけではない
  • アクティブラーニング型授業の技法例:ピアインストラクション、LTD話し合い学習法、Problem-based Learning
  • アクティブラーニング型授業の質を高めるための工夫:コンセントマップを用いた評価、授業外時間をチェックする、逆向き設計(backward design)、反転授業(flipped classroom/inverted classroom)

 

偏見とは(オックスフォード社会学事典・第3版)

 

  • A Dictionary of Sociology(Oxford University Press, third edition)による、prejudice(pp. 518-9)の拙訳

 

 偏見とは通常、人や物に対してあらかじめ持たれた好意的・敵対的な意見、あるいは先入観(bias)を意味する。先入観とは否定的なものだけではなく肯定的なものでもありうることを記憶に留めることは重要であるものの、この用語はもっぱら、何らかの集団あるいはその成員に対する否定的あるいは好ましくない態度に言及するものである。偏見は真であるかどうかが検証されているかということよりも、むしろ個人の感情や態度と関係したステレオタイプ化された信念を特徴としている。Gordon Allportの古典的著作であるThe Nature of Prejudice(1954)では、次のように定義されている。「(偏見とは)欠陥がありかつ融通のきかない一般化に基づいた嫌悪感である。感情としてだけではなく、外に示される場合もある。集団全体に向けられる場合もあれば、集団の中の個人に向けられる場合もある」。他の人々にくらべて偏見を持たれやすい外見を有する人々もいる。精神分析理論では、権威主義的パーソナリティ類型では偏見と関連した融通がきかない態度が持たれやすいことが指摘されている。
 1920・30年代に、社会心理学では偏見は非常に注目を浴びた用語となった。この理由の一部には、態度理論の発展への関心(くわえてBogardusの社会的距離尺度など、態度を測定する新たな技術)や、アメリカにおいて広く存在した民族的マイノリティへの敵意や、ヨーロッパにおける反ユダヤ主義の台頭への関心、そしてマイノリティ集団一般への関心といったものが存在した。偏見研究の当初の伝統は2つの主要な著作が出版された時期にピークに達した。これらは、Theodor AdornoらによるThe Authoritarian Personality(1950)と、Gordon AllportによるThe Nature of Prejudice(1954)である。前者は偏見のパーソナリティ基盤に関してもっとも詳細な分析であり、後者は偏見の心理学的、構造的、歴史的な基盤について研究の知見を統合することを試みたものである。多くの研究がこの伝統に従っているものの、偏見という用語はまた社会学の内部で強く批判されてきており、それは特にその個人主義的な意味合いに向けられてきた。
 社会学的な定義はまた、偏見とは合理性、正義、寛容などの社会的規範に対する侵害として規定する傾向にある。過剰な一般化、予断、個人間の差異を考慮することの拒否、そしてステレオタイプ化された思考は、すべて合理的な思考に反する。同様にして、偏見による正味の効果が、値しないような何らかの不利を個人あるいは集団に生じさせるのであれば、偏見とは本質的に不公正なものである。偏見はまた不寛容と、さらには人間の尊厳の侵害を含むものである。Zygmunt BaumanはThinking Sociologically(1990)において、偏見は道徳のダブルスタンダードに帰結することを示唆している。内集団の人々が権利として受けるに値するものが、外集団の人々に行われた場合には特別のはからいや慈善行為になるのである。Baumanはさらに、「もっとも重要なのは、集団外の人々への敵意は、道徳的良心と衝突しないようだ」と主張している。どちらの側を引き受けるかによって、まったく同じ行為が異なった名前で呼ばれ、大きな称賛あるいは非難を呼ぶ。ある個人による解放の行為が、別の個人によるテロ行為になる。
 偏見は内集団と外集団の存在に対する帰結と強化であり、それは「やつら」と「われわれ」の区別を体現している。内集団と外集団への態度は本質的に関連している。なぜならば、内集団への感情は外集団への感情に帰結し、逆も同様であるためである。片方の側は、もう片方へ反対しているという事実によって自らのアイデンティティを引き出していると言うこともできるだろう。この意味において、外集団は内集団の結合と情緒的安定のために必要なのであり、そして外集団とは創作される必要があるものなのかもしれないのである。古典ではあるものの道徳的に不穏な事例として、Muzafer SherifとCarolyn SherifがAn Outline of Social Psychology(1956)において、内集団と外集団がいかに実験的につくりだされるかを示している。著者たちは少年キャンプの活動において、特別につくられた2つのクラブが互いに報酬を競わなければならないように仕掛けをつくった。はじめの時点では互いのクラブに同数の友人が存在したにもかかわらず、少年たちはすぐに敵意とステレオタイプを相手のクラブに持つようになった。著者たちは、ステレオタイプとは学習されるものというよりはむしろつくり出されるものであると結論づけている。
 敵が近くにいる場合に、集団は結束を固める。偏見は敵の悪行を誇張することで、正義と寛容の規範が働かなくなることをより確実にする。偏見は常に何らかの敵対行為に帰結するわけではないものの、偏見が現れたときには(少なくとも)忌避、あるいは差別、さらにはホロコーストのような虐殺にまで及びうる。