大澤真幸『不可能性の時代』

不可能性の時代 (岩波新書)

不可能性の時代 (岩波新書)

社会学者というよりも今や思想家の域に達している、大澤真幸の最新刊。

戦後日本の精神を、現実に対する<反現実>の移り変わりとして記述した本だ。

社会学者・見田宗介の時代診断を援用しつつ、現代の日本は戦後まもなくからの「理想の時代」、70年頃を境にした「虚構の時代」を経て、「不可能性の時代」に突入していると著者は言う。

「理想の時代」とは、現実が希望に満ちた理想に向かって進んでいると実感できた時代だ。右肩上がりの経済成長を続け、家庭にテレビ・自動車などの耐久消費財が普及していった、端的に言えばアメリカが日本を引っ張った時代ということだ。

経済は成長を続けたが、一方で公害問題などが出てきた。安保闘争の失敗が「理想の時代」の最後であり、理想の断念として、「虚構の時代」が現れる。「虚構の時代」においては情報化・記号化された<反現実>の差異を消費することで人々は楽しみを得る。
「夢の国」という言葉で形容される東京ディズニーランド(1983年開園)や、1983年に言葉として誕生した「オタク」に象徴されるのがこの時代だ。

そして1995年、オウム真理教による事件以後が「不可能性の時代」として説明される。「不可能性の時代」とは虚構の極致として現れる時代であり、<現実から>の逃避ではなく、<現実へ>と人々が逃避している時代だという。

現実への逃避とはどういうことか。著者は以下のような例を出す。

たとえば、リストカットのような自傷行為によって、自らの身体の上に生み出される痛みは、〈どんな現実よりも現実らしく、現実を現実たらしめているエッセンスを純化させたもの〉だし、ゲームやアニメにハマるオタクたちが求めているのは、〈ほとんど虚構の意味(物語)の理解を媒介としない、神経系を直接に刺激するような強烈さである〉。


誤解を恐れずに言えば、「不可能性の時代」とは理想も虚構も人々を駆動する力にはもはや成り得ない「何もかもが信じられない時代」だということだ。ゆえに人々は、現実への逃避を起こすようになる。


うーん、一読してもまともな要約すらできてないなあ。大澤社会学は用語が独特で難しい。