鈴木謙介『カーニヴァル化する社会』

カーニヴァル化する社会 (講談社現代新書)

カーニヴァル化する社会 (講談社現代新書)

分かったような分からんような。


著者はイラク人質事件へのバッシング、北朝鮮拉致被害者家族へのバッシング、若者の際限のない「やりたいこと」探し、ケータイ依存、こうした現象に通底背景を「カーニヴァル化」という用語で説明する。

カーニヴァル」とは、社会学者ジークムント・バウマンからの援用らしい。曰く、後期近代においてはソリッドなもの、大きな物語が志向された近代に代わって、流動的で個別的な社会に人々は直面する。このような時代においては、人々は組織や共同体の軛から解き放たれて、あらゆることが再帰的な自己決定の対象になる。すなわち、「共同体に属するかどうか」、「伝統に従うかどうか」、あらゆることを自己の責任において決定しなければならない。

こうした流動的な社会は、個人が一貫性を保つことが困難になる。それにより、「共同体」というある種の構造を維持していくことではなく、「共同性(つながりうること)」の証左を見出すことを基盤にした瞬間的な盛り上がりこそが、人々の集団への帰属感の源泉となるとのことだ。


この概念を用いると次のようなことが見えてくる。
イラク人質事件へのバッシングという「左翼批判」の文脈で語られることが多かった問題と、むしろ「左翼批判」の文脈で同情的見解が持ち出されていた拉致被害者家族に対するバッシング。なぜこの二つが両立しうるかといえば、思想の問題ではなく、瞬間的な盛り上がり、すなわち「ノリ」が共有されればよいという感性があることが分かる。


なぜ、カーニヴァル化社会が登場することになったのか。それは、情報化社会によるデータベースの蓄積が可能になったことによるという。個人情報がデータベースに蓄積されることによって、「人間関係のデータベース化」が生じた。具体的にはSNSやケータイのアドレス帳によって参照されるような関係のあり方である。それにより、かつて人々は様々な社会関係の中で必要とされる「役割」を獲得する中で、自我を確立する時代であったのが、データベースと自己の間の往復運動によって自我が確認されるようになる。そうすると、データベースに対して自分が振舞うべき「キャラ」を確認するという作業によって「わたしは、わたし」という確認が可能になる。こうした社会はでは、「本当の私」や「本当の愛情や」、「本当にやりたいこと」を望めば臨むほど、それが手に入れられず、結果として立ちすくんでしまわざるを得ないことになる。カーニヴァル化とは、このように自己とデータベースのパラノイア的な往復運動が背景にあるという。


本書のような社会診断・時代診断は結局、「それって本当に昔から変化しているの?」という梯子外しにいかに適切に答えられているかどうかによって評価されるのだと思う。そうすると、この本の出来は…どうかな。やっぱりうまく消化できていない。