ネル・ノディングズ『ケアリング――倫理と道徳の教育 女性の観点から』

ケアリング―倫理と道徳の教育 女性の観点から

ケアリング―倫理と道徳の教育 女性の観点から

哲学、倫理学、教育学、医学・看護学社会学、女性学などの多岐に渡る分野で重要になっている、ケアリングという概念についての本。

ケアリングとは、他者に対する専心没頭と受容性による、道徳的・共感的なかかわりのこと。

ケアリングとは誰に対してもできるものではなく、個別的・具体的な人間関係を中心にしたものである。著者はこれを「女性的なもの」と言い、普遍的な正義や公正さを追求してきた旧来の「男性的な」倫理学に対置している。つまり、旧来の倫理学は合理性・普遍性に注目するあまり、感情を無視してきた、というようなこと。ただし、「女性的」といっても女性だけが関わることができるもの、ということではない。

現代において、真理や正義を基盤とする倫理がますます困難になっているというのは多分あって(例えば「なぜ人を殺してはいけないのか」と言って殺人を犯す人に対しては、いかなる普遍的な倫理による説得も不可能であるように思う)、こうした個別・具体的な人間関係を基盤とした倫理は重要だと感じる。

少し社会学的に言うと、社会関係資本を中心として、道徳や倫理を再構築しなければいけない、とでも言えようか。

ただし、このような概念が学問として成り立つのかというのは批判として多分あるのだと思う。今まで無視され、抑圧されてきたものだから、まだまだこれからの分野なのだとは思うけれど。

以下は疑問に感じた点。

○ケアリングという概念が都合よく利用されてしまうことはないか。例えば介護労働の現場で、「介助される人が本当に望むことをしてあげればいけない」という意識を持ってしまい、働きすぎてしまう若者がいることが指摘されている。客観的に見れば明らかに危険な労働であるにもかかわらず、「やりがい」という言葉によって働かされてしまう状況を、本田由紀は「やりがいの搾取」と呼んでいるが、このような事態にケアリングが寄与してしまうことはないか。

○個別・具体的な人間関係の重視、およびケアリングは誰に対しても対等に行えるものではない、と言うことによって教師が特定の生徒を選り好みすることを正当化してしまうことにはならないか。

○ケアリングによる道徳・倫理の構築は、関わり合いができる人間関係が存在することを前提にしている。しかし、そもそもそうした人間関係がない場合にはどうすればよいのか。特に現代の日本では、低所得層ほど人間関係のチャンスでも不利が生じていることが各種調査で明らかになっているが、「誰がケアリングできるのか」がもっと問われなければならないのではないか。