近ごろの若い人たちのあいだでは一種の偶像崇拝がはやっており、これはこんにちあらゆる街角、あらゆる雑誌のなかに広くみいだされる。ここでいう偶像とは、「個性(ベルゼンリヒカイト)」と「体験」のことである。このふたつのものはたがいに密接に結びつく。すなわち、個性は体験からなり体験は個性に属するとされるのである。この種の人たちは苦心して「体験」を得ようとつとめる。なぜなら、それが個性をもつ人にふさわしい行動だからである。そして、それが得られなかったばあいには、人はすくなくともこの個性という天の賜物をあたかももっているかのように振舞わなくてはならない。かつてはこの「体験」の意味での「センセーション」ということばがドイツ語的に使われたものであった。また、「個性」ということばも、以前にはもっと適切な表現があったように思う。
 さて、お集まりの諸君! 学問の領域で「個性」をもつのは、その個性ではなく、その仕事(ザッヘ)に仕える人のみである。
(中略)
自己を滅して専心すべき仕事を、逆になにか自分の名を売るための手段のように考え、自分がどんな人間かを「体験」で示してやろうと思っているような人、つまり、どうだ俺はただの「専門家」じゃないだろうとか、どうだ俺のいったようなことはまだ誰もいわないだろうとか、そういうことばかり考えている人、こうした人々は、学問の世界では 間違いなくなんら「個性」のある人ではない。こうした人々の出現はこんにち広くみられる現象であるが、しかしその結果は、かれらがいたずらに自己の名を落とすのみであって、なんら大局には関係しないのである。むしろ反対に、自己を滅しておのれの課題に専心する人こそ、かえってその仕事の価値の増大とともにその名を高める結果となるであろう。

――マックス・ヴェーバー『職業としての学問』、尾高邦雄訳、1980年、27-29頁

このくだり、何度読んでも新しい。