山岸俊男,メアリー・C・ブリントン『リスクに背を向ける日本人』

リスクに背を向ける日本人 (講談社現代新書)

リスクに背を向ける日本人 (講談社現代新書)

 この対談の内容は、ニートやひきこもりに代表される若者の「リスク回避傾向」が、実は若者だけではなくて、日本社会全体を特徴づけているというテーマを中心にしています。そして、若者だけではなく、日本人全体を特徴づけているこの「リスク回避傾向」は、実は、リスクが大きすぎることに原因があるのだという点で、二人とも同じように考えています。
 常識的には、アメリカ社会の方が日本社会よりもリスクが大きな社会だとされていますが、それはむしろ逆だというのが、私と山岸さんが共通して持っている理解です。
[19-20]

日米を又にかける二人の社会科学者による刺激的な対談。

中心的なテーマとなっているのは、他人の目を気にして嫌われないようにするのが賢いという、「リスク回避」的な生き方。
これが現代の日本における若者の引きこもり、学校から職業への移行の困難、いじめ、少子化などの問題と関連させて議論される。

注意深く補足されるのは、「リスク回避傾向」は日本人にとって本質的なものだとか言ったり、単純に日本人は駄目だとか言ったりするわけではなく、そうした生き方にメリットをもたらす様々な制度が存在してきたということ。
例えば、終身雇用制が存在し、転職することが不利な労働市場の設計の下では、なるべく同僚や上司に嫌われないように働くことにインセンティヴが働く。日本経済が不況に入るまでは、そうした制度が機能して成功してきたため、現在はそれにしがみ続けるという「成功の呪い」に陥ってしまっているという。そうではなく、「セカンドチャンス」を認める労働市場への転換が唱えられる。

他人の目を気にしなくてもよい状況では、日本人もアメリカ人と同じような行動をとるという社会心理学の実験結果も紹介される。それは下記のようなもの。
ランダムに選ばれた被験者にアンケートを回答させ、「アンケートのお礼にペンをお持ちください」と5本のペンから選ばせる。そのうち4本は同じ色で、1本は異なった色。すると、アメリカ人は1本しかない色のペンを選び、日本人は4本の同じ色のペンから選ぶ人が多い。これは日本人が多数派を好みがちだということなのか。そう単純ではないという。
次に、実験のデザインを変えて、ペンを選ばせる前に「あなたが最後の被験者です」と明示する。すると1本しかない色のペンを選ぶ人の割合は、日本とアメリカで差がなくなる。他の人がどのペンを選ぶかを気にする必要のない状況では日本人もアメリカ人と同じ程度にユニークな選択をするという結果である。
このように、一見して文化による本質的な差に見えるものは、どういう行動をとるのが適切か分からないときにとりあえず採用する、「デフォルト戦略」に依存するのだと山岸先生は指摘する。すなわち、日本人にとってはまわりの人から非難されたり嫌われたりしない行動が無難なのだという。

こうした例から主張されるのは、他人の監視の目を気にして嫌われないようにするのがプラスな社会ではなく、自ら進んで協調し、他人を信頼するのがプラスになるような社会に制度設計をすべきということ。精神論を振りかざして倫理的たれと言うことがいかに無意味かということが強調される。ただし同時に、制度をつくりかえてゆくためには人々の意識が変わらなければならないし、そのための困難も繰り返し指摘されている。なぜならば、ある個人にとっては他の人がとる戦略がこれまでと同じであれば、自分も同じようにこれまでと同じ戦略をとるのが合理的であるから。


面白いと思ったところを雑多にメモ。

山岸 だから、重要なのは、一人ひとりに忠告するんじゃなくて、そうした忠告が意味を持つ社会を作ることなんだよ。一言で言うと、セカンドチャンスがつねに用意されている社会制度。
[48-9]

 それじゃあ、なぜ企業や社会はそうした[転職してキャリアを作ろうとする]人たちを積極的に受け入れないのか? それはただ、企業の考え方が古いからだというような言い方をされると、「ちょっと待ってください」と言いたくなってしまう。もちろんメアリーがそんなことを言いたいんだとは思わないけど、世の中にはそういった論調が多すぎるから。
 さっきメアリーが「均衡」という言葉を使ったけど、それは言い換えると、ほかの人たちの行動が変わらない限り、それぞれの個人にとっては今のままの行動を続けるのが一番良い結果を生み出す状態だということだよ、ね。
 例えば、どの企業も中途退職者を受け入れない状態では、今の仕事にしがみつくのが最良の選択ということになる。そうなると、能力のある人たちは、オープンマーケットで評価される知識や能力ではなくて、今いる会社の中で出世するのに有利な知識や能力の涵養に投資するようになる。その結果、効率的でオープンな労働市場が形成されないので、企業はますます内部からの人材調達を進め、中途退職者への機会が閉ざされてしまう。
[106]

 要するに、生き方と社会のあり方というのはやっぱり切り離せなくて、嫌われたっていいじゃないかと思えるためには、ほんとうに嫌われても困らないような環境が必要。つまりセカンドチャンスがないとダメ。ぼくが言いたいのは、いろんなオプションがないと、ともかくリスクを避けようというふうにしか行動できない。
[146]

山岸 ぼくは、倫理性をたんなる心がけの問題ではなくて、同時に制度の問題だと考えています。倫理的に行動する人が少なくとも馬鹿を見るようなことがない、あるいは利益を得られるようにするための社会のしくみがなければ、いくら説教をしても、結局は誰も聞く耳をもたない。
[194]

 ここで日本人が気をつけなければいけないのは、ウィークタイズの関係で、人を知り合いに紹介したときに、自分が責任を感じたりする必要はないということ。
(中略)
 でも、そんな心配はストロングタイズでは必要だけど、ウィークタイズでは無用だ。採用されようとされまいと、それぞれのその後の人間関係には何ら影響がないと考えないと、ウィークタイズの結びつきは成り立たない。
[205-6]

他、大学関係の話など。

メアリー 山岸さんは日本の大学とアメリカの大学を行ったり来たりしてきて、そういう意味でユニークな生き方をしてきた人だと思うんですが、日本人はみんな山岸さんのような生き方をすべきだとお考えなんですか?
山岸 そんなことはないですね。そもそもアメリカに留学したのだって、大学院を修了しても日本で職がなかったからです。日本で食い詰めていたところに、フルブライト財団から渡航費用を出してもらえることになり、またワシントン大学でリサーチ・アシスタントとして雇ってもらいながら大学院に通うことができることになったからです。
 私自身が若いころは、日本の大学ではコネのあるなしで仕事が決まっていました。当時の私の指導教員は南博先生という、日本で社会心理学の基礎を作られたとても偉い先生で、第二次世界大戦中にアメリカで博士号をとって、戦後すぐに日本に戻ってこられた方です。だから、よくいえば日本の学会のしきたりにとらわれない先生で、だけど、自分の学生に就職先を用意することをしない先生でした。
 というわけで、先生のコネを使って就職先の大学を探すこともできず、といって大学教員の一般公募もほとんどなかったので、食い詰めてアメリカに渡ったわけ。だから、ぼくの大学院の仲間たちも、ほとんどが留学しています。
[50-1]

ぼく自身、アメリカから戻ってきてからずっと、「他人からどう思われるか」という圧力と闘ってきたと思っています。「他人からどう思われるか」を気にしていたら、決して独創的な研究はできないと信じているので、そうした圧力に抵抗するためにいろいろな方法を試してきた。
 例えば、日本に帰ってすぐ、教授会にタンクトップで出席したのも、実はそうした理由からなんです。その当時は、ぼく以外の教授たちは全員ネクタイを締めていました。教授会にはちゃんとした格好で出席しないといけないという無言の圧力があった。だから、教授会にタンクトップで出席するというのは、そうした圧力に抵抗できるように自分自身を鍛えるために、自分自身に課した一つの訓練だったんです。
[264-5]