原発に40年間反対し続けてきた小出先生が、「原子力に携わってきた人間の一人なので、このようなことを招いてしまった責任は私にもある。申し訳ない」という謝罪の言葉を表明していることには震えた。
ヴェーバーの『職業としての政治』の理念型を引けば、きわめて心情倫理的に行為しているにもかかわらず、その結果についても深く憂慮するという責任倫理的な面も同時に持ち合わせていると言えるのかもしれない。
小出先生の振る舞いを見ていると、研究者の姿勢について深く問われる思いがする。一見すると、官・民・学の中ではもっとも自らの意見を自由に表明しやすいはずの大学の研究者が、国策に追随してきてしまった。それには、予算配分や出世の問題が関わっているからであり、多くの研究者は原発を推進する立場を採ってきた。そうした中では、断固として原発反対を貫くという小出先生の姿勢はあり得そうにもない振る舞いであり、それゆえに非常に魅力的なものに映る。

また、単に原発が安全か危険かという次元の議論だけではなく、そもそもなぜ原発に依存しなければ成り立たないような豊かさを日本人は求めてきたのか、我々にとって幸いな生活とは何かを問うていることには考えさせられた。


それから教育の問題についてだ。経産省原子力保安院・エネ庁の問題は指摘されるようになってきたが、原子力は安全だと子どもたちに教育し続けてきた文科省の責任はどう考えるか。文科省(旧文部省)は「原発は大きな津波にも耐えられる」という記述のある副読本を採用し続け、また原発の危険性が中学校の社会科教科書に執筆された際には、記述の書き換えを執筆者と出版社に求めた。
子どもたちにはもちろん責任はないわけだが、その子どもたちが次世代においては責任を持って判断をしなければならない。その過程において日本の教育が何をしてきたのかは問われなければならない。


あと、上の動画で毎日放送が関電から広告の出稿停止という恫喝を受けたという話が紹介されているが、電力会社がマスコミに対して広告料を盾にして、自社への批判的な言論・報道を封じているという仕組みはやはりおかしい。そもそも地域独占をしている会社が広告を出す必要などないはずだ。現在も東電福島第一原発の事故の謝罪というかたちでCMを流し続けているようだが、そのような余裕があるならば賠償の原資に上積みするべきだ。