武田徹『私たちはこうして「原発大国」を選んだ―増補版「核」論』

原子炉敷地は、仮想事故の場合、全身被曝線量の積算値が、2万人Sv以下になる程度、人口密集地帯から離れていることが必要とされている。2万人Svは決して大げさな数字ではない。人口1000万人の都市であれば、住民は2ミリSv以下の被曝しか許されないことになる。しかし2ミリSvは日本で生活する人の自然放射線による年間被曝量にほぼ等しい。その程度の被曝すら許さないほど事故の際の安全性は重視されている。しかし皮肉なことにこの規定がある以上、原発は人口密集地からかなり遠くに作らざるを得ないこと、つまり僻地にしか作れないことが運命づけられることにもなる。人Svの値を下げるために「人」数を減らすしかないからだ。こうして立地場所を限定することで原子力事故の賠償が天井知らずになることを防ごうとした。
 これは、しかし、原子力発電所の運転継続を国が望む場合、その地域は過疎であり続けなければならないことになる。そうでないと立地指針によれば原発立地には相応しくなくなる。逆に言えば過疎化を前提とせずには、事故の際に現実的な範囲で賠償可能の域に留めることはできない。これが原子力損害賠償法の裏側にあるリアリズムだった。
 となると電源三法交付金は地域振興を本当に目的にすることは出来ない。では、それは何を目的としていたのかということになる。電源三法交付金は永遠に過疎の運命を強いる事への迷惑料、慰謝料的な性格が実は強かった。
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戦後から2000年代まで、また人物伝からサブカルまで多岐にわたるトピックを扱った本だが、上記に引用した電源三法(電源開発促進税法、電源開発促進対策特別会計法、発電用施設周辺地域設備法)を扱った章が最も卓抜だと感じた。
電源三法交付金による原発推進政策が、一見すると再分配・地域振興を目指しているのとは裏腹に、実際は原発を誘致した地域を構造的に過疎に留めるものであったという指摘は、戦後の経済成長や、日本的・田中角栄的な再分配政治を見直す上でも示唆に富む。


全体として、原発推進派・反対派のどちらかに偏った視点ではなく、バランスを取ろうとした議論をしているところがある。それゆえに、消化不良な感じやもどかしく思える箇所もある。しかし、3.11以降、明確に原発反対の態度をとるようになった私にとっては、この本は原発の推進派・反対派のねじれをどのように理解すればよいのか、というメタ的な視点をもたらしてくれた。推進派・反対派の対立は、特にフォン・ノイマンと原爆開発の関係を論じた章において、(ノイマンなだけに)ゲーム論の枠組みで記述されている。


ちなみに私は、より消極的には2007年に新潟中越沖地震が起きて柏崎刈羽原発が停止した際から、原発の推進には懐疑的だったが、石油価格の上昇・CO2の削減・再生可能エネルギーのコスト高などという観点から、原発に依存するのはある程度仕方がないことなのだと思っていた。しかし、今回の震災の後、原発が相対的にコスト安だというのは、原発を誘致した自治体への交付金・使用済み燃料の再処理費用・廃炉費用・事故が起こった際の賠償費用などのバックエンド費用と呼ばれるものが十分に計上されておらず、実際にはかなりコストが高くつくということを知ったことを一つの理由として、明確に態度を変えた。