川島武宜『日本人の法意識』

日本人の法意識 (岩波新書 青版A-43)

日本人の法意識 (岩波新書 青版A-43)

丸山眞男大塚久雄川島武宜と並べて書いてみるだけで一つの時代を感じる。


本書は、明治時代に西欧諸国の法律に倣って制定された法体系と、現実の国民生活の間には大きなずれがあったという関心の下、人々の法意識に焦点を当てている。
本書が書かれた時点ですでに変化が起こっている現象もあると、著者は断っている。また、西洋に対する日本の法意識の独自性は、どこまで実証的に当てはまるのかは分からない。しかし、60年代に書かれたものとは思えないほど、現代の日本に通ずるリアリティがある。


なぜ、法意識を取り上げるのか。それは、法意識は法的社会統制を決定する行動にもっとも近接した行動だからだという。

各章では、「権利および法律についての意識」、「所有権についての意識」、「契約についての法意識」、「民事訴訟の法意識」がそれぞれ分析されている。

一貫している主張として、日本人には「権利」の観念が希薄であるということ。西洋においては、「法」と「権利」は同一の現象の異なる側面を取り上げているものと捉えられている。しかし、日本においては「権力」の観念はあっても、「権利」は江戸時代までは存在しなかった。権利は権力と同様に、個人と個人の間の社会関係を表わすものであるが、権力とは異なり、実力行使が制限され、また「客観的な判断基準」にしたがって評価されるもの。
例として、日本の伝統的な雇用関係においては、雇用主が被用者に対して労働を「請求する権利」があるとか、被用者が雇用主に対して「賃金を請求する権利」があるとは考えられなかった。そうではなく、被用者は「働かせていただいて」「お給金をいただく」と考えていた。


近代法における私的財産制度の特質は、(1)財産制度の基礎ないし中核が「私的有権」であること、(2)「私的有権」は、客体に対する全包括的・絶対的な支配権であること、(3)「私的有権」の存在は、(現実にその財産を支配しているかどうかにかかわらず)観念的・論理的に決定されるということ。
しかし日本における所有権の意識には、所有者が所有物に対して独占排他的な支配を持っていると思わず、また非所有者の現実支配が一種の正当性を持つものと思われている。


「契約」とは、二人以上の者がその相互の権利義務について合意すること。当事者の合意が成立しさえすれば、証書などの有無にかかわらず、有効に成立する。また契約は成立するかしないかの二者択一であって、その中間はないのが原則である。
ところが日本人の契約の意識はこの原則と異なり、「拘束力があるような・ないような」、「契約であるようなないような」合意が存在している。すなわち契約内容を不確定にするものであり、これがむしろ日本人には安定感を与えている。もし契約内容を曖昧さがないように明確にするようなことをすれば、しばしば「非常識」であり、親密な関係にひびが入るものだと思われる。


近代法の用語として、「調停」とは、紛争当事者以外の第三者が和解の条件を紛争当事者に示して、当事者の合意(和解)によって紛争を解決するように当事者に働きかけることを言う。一方、「仲裁」とは紛争当事者以外の第三者たる私人が紛争に対しある決定を下すことを意味する。すなわち、仲裁においては紛争当事者は仲裁人の決定に拘束される。
しかしこうした用語法は、西洋の法意識に立脚したものであり、日本においては「仲裁的調停」という未分化な形態が存在する。仲裁的調停においては、争いを「丸く納める」ことが目的とされ、何が正しいかを明らかとすることは目的とされない。そのために、紛争当事者は争いを仲裁人に、「預ける」、すなわち仲裁人が紛争を「丸く納める」ことに同意する。
江戸時代には一人一人の個人が独立して相互に社会的な関係を結ぶという観念がなく、「家」や親類・部落などの結びつきで社会は成り立っていた。ここでは相互の権利が確定的になっておらず、こうした「協同体」的な関係においては、「丸く納める」ことが望ましいのであり、仲裁的調停がもっとも適した紛争解決方法であった。


明示以降に日本におきた歴史的な変化は「近代化」、すなわち支配=服従的な社会関係の解体と、「自由平等」な個人のあいだの社会関係の成長、したがって特定個人的かつ情動的な制裁の退化と非特定個人的かつ理性的なサンクションの成長ということができる。しかし、そうした変化は一挙に起きるわけではなく、人々の心の中に定着した意識は、抵抗して存在し続けることになった。