大沢真理『企業中心社会を超えて―現代日本をで読む』

これは繰り返し参照しないといけませんねえ。



「図1−2の「会社人間化」とは、①「昇進など組織内での成功だけを重視する一元的な価値観」、その反面生じた法や正義の軽視、国際問題・社会問題への無関心、②企業への長時間かつ広範な拘束と「組織的な無駄、非効率」、したがってまた、③夫=父の家庭不在に代表される「家庭生活の歪み」、④さらに住宅・教育を含めた生活全般の企業への依存、などをさしている。」[29]


「そして第三に「外部不経済」の発生、つまり環境汚染のように市場の直接取引者以外に不利益をおよぼすこと。たとえば「ジャスト・イン・タイム制」(下請や納入業者が、「親企業」の指定の時間どおりに少量多頻度で部品を納めることで、親企業の側の在庫を極小とするシステム)が、下請の負担を増し交通渋滞を招く、頻繁で瑣末なモデルチェンジが社会全体としては労働・資源のむだづかいになる、といったことがらである」[31]


「むしろ私たちがここで注意すべきは、図1−2のような企業中心社会の構造のとらえ方が、なお重大な弱点をもつことである。第一に、日本の戦後史を企業中心社会の形成史として見る場合に、1973年秋の第一次石油危機のもつ意味が、これではいかにも過小評価されている。第二に、図にいう「性別、年齢別役割分担社会」の位置づけが浅く、石油危機以降のその再編も見落とされている。」[33]


「このように、今日欧米諸国との対比で問題になる日本の長時間労働、「過労死」問題そのものが、すぐれて石油危機以降のものであることに注意しなければならない。極力人員を抑えつつ、残業増加・休日出勤・年休返上、はてはサービス残業でノルマをこなす「会社人間化」が、民間大企業でいっそう強まるとともに、下請化・系列化を通じて中小企業の労働者に過酷なまでに押しつけられた。そして1974年なかばから、所定外労働の削減、新規採用の停止、一時帰休などの「雇用調整」が進行して、労働条件は低下するにもかかわらず、離職率は顕著に減少する。」[37]


「ここで、献上な青壮年の日本人男性の「会社」以外の「社会参加」、「社会貢献」は保障されなくてよいのかといぶかるのは、余計な心配であるらしい。彼らこそは、ことさらに「環境の整備」をしてもらわなくても、十二分に参加し貢献している日本社会の本来のメンバーであるということが、生活五か年計画の大枠となっているのだろうか。」[41]


「性別賃金格差をめぐる仮説はいくつか存在することが知られているが、本章は小池説に焦点をあわせる。第一章でもふれたように、日本の労働関係や人事管理を高い生産力の支柱として肯定的に評価する1980年代の社会科学の潮流において、小池和男がリーダー的な存在だったからである。」[50]


OECDモデル条約の1981年の報告書『女性と雇用(Women and Employement)』ではじめて用いられたことからWE指数と略称される指数は、産業分類ないし職業分類ごとの女性就業者の「出現度」(各分類の女性比率を就業者総数の女性比率で割った数値)から1を引いた絶対値の加重平均であり、ウェイトは産業ないし職業分類ごとの就業者シェアである。」[54]


「つまり職業大分類で見た場合、日本の女性は他国よりも生産、運輸、労務などブルーカラー職業で働く人が多く、事務職業や販売職業にはさほど集中せず、男性の職業別分布とそれほど大きく異ならないために、分離指数が低くなっているということである。」[60]


「小野によれば、韓国では労働者の流動性が高いにもかかわらず年功カーブが日本にもまして明確に存在するのであって、いわゆる年功カーブは「年齢別生活費保障型」賃金にほかならない」(小野、1986)[65]


「野村によれば、熟練が賃金を決めるという説はきわめて疑わしい。日本の大企業では、保全工など熟練の高い専門校と、せいぜいでも半熟練にすぎない直接労働者とが、同年齢同期で入社して毎年の人事査定が同等であれば、同じ賃金を受け取るからである。」[65-6]


「企業は査定を、賃金および昇進・昇格において、従業員に「差をつける」資料として使っている。ただ、賃金決定には大幅な格差はつけず、昇進・昇格については入社10-20年の「若いうちに早いうちに選抜をせず」「それ以降に徐々に差をつけている」というのが、橘木らの評価である。」[66]


「こうして、野村によって小池の「知的熟練」論は裏がえしにされたことが分かるだろう。技能が高まるから賃金があがるのではなく、査定=人事考課による個人差はあれ、ともかくも年齢につれて賃金をあげてやらなければならないからこそ、その賃金にみあう技能をつけさせようとするのだ。ただし、その労働者が男であるという条件つきで。ちなみに野村は、女性の低賃金を「若年で退社」することから説明しようとするようである(野村、1992b、14ページ)。だが、むしろつぎのように考えたほうが一貫するだろう。"妻子を養う"男の生活費にみあう賃金に、女をあずからせるということ自体が論外なのである。」[68]
「この賃金体系を前提とするかぎり、女性正社員への勤続へのインセンティブをくじき、「若年で退社」させることは、企業にとってほとんど至上命題となる。急な年齢別賃金上昇カーブをもつ大企業ほどそうなるだろう。」[68]


「実際、小池にとっても師匠にあたる故・氏原正治郎はすでに1956年の論文で、男性にたいする「生活給的賃金」と女性の年齢を問わない低賃金とを、労働供給側=家族の「家父長制」に対応する労働需要側=「資本」の「家族主義的労務管理」の集中的表現と見ていた。」[68-9]


「そのなかで、[※氏原の]「資本の側の要因」という第三段階の論理について「舌足らず」と私がいうのは、つぎの理由による。まず、「主婦」以外の女性の雇用労働が、若年未婚者では大企業・近代工業に、高年女性では日雇・労務となる理由、つまりいわば年齢別に職務分離する理由が、依然として不明である。」[72-3]


「ただし、家事・家庭責任の女性専担について、氏原がその理由説明を丸ごと放棄している点、したがってその理由を女性の生殖機能に帰することを避けている点は、他の「女子労働論」との比較で注目される。」[73]


「こうした議論の組み立て方は氏原の独創ではなく、マルクス資本論』の「労働力の価値」の規程を踏襲している。彼らの議論において家事労働を配慮する必要が意識されていないということは、つぎの点を強く示唆する。すなわち、「一般」として語られる「性別」抜きの「労働者」は、実は、人間の生活に不断についてまわる家事労働の負担を妻に転嫁した男性世帯主、というきわめて「特殊」な存在にすぎないこと、これである(大沢、1992a、39-40ページ)。


「しかし上野千鶴子も整理するように、フェミニズムの「家父長制」は、「封建的」、「前近代的」な関係や制度をさすものではない。近現代の産業社会のまっただなかに存在する女性の抑圧、男性による女性の支配をさす概念である。」[76]


「また、小池が確認したように、企業規模間の格差の大きさは日本の労働の特徴の一つだが、この問題とジェンダーとの関連はこれまで必ずしも明確に議論されていない。」[79]


「日本の「パート」は労働時間の短さで定義することがむずかしく、結局、事業所での「取り扱い」、つまりいわば「身分」として把握するほかない」[82]


「男性パートの半数が55歳以上であって、男性にとってパートがすぐれて定年後の再就職としての働き方であることが分かる。」[89]


「パート問題が少零細企業問題でもある」[90]


「小池の議論がそうであったように、規模別賃金格差にかんする議論は男性に限っておこなわれることが多い。それが男性のみの問題でないことをこの際強調しておきたい。[94]


「じつは女性就業者の「家族従業者」の比率が1980年代をつうじて20パーセント知覚にものぼり、農林業をのぞいても12パーセント程度をしめてきたことは、日本の労働の特徴の一つであった。」[98]


「若手女性正社員の存在ゆえに、「人間を機械として使う」、「たえがたい」単純反復作業の職種を男性はまぬかれるのである。」[99]


「日本ではまず規模別に大きな付加価値生産性の格差があって賃金格差はその反映にすぎないという見方があるとすれば、それは転倒している。この場合にも、はじめに賃金格差ありきであると考えられる。」[105](太線部は原文傍点)


「配置転換などによる職務の変更も賃金額を変えない。逆に、入社年、年齢が同一の労働者でも性別や思想信条によって「異質」とみなされること、たとえば「女」や「組合員」であるだけで査定点まで低くなることは、遠藤公嗣が最近の論文で明らかにしたとおりである(遠藤、1993)。」[106]


「つまりタテマエとしてではあれ両性平等の職場に働くことが、家庭内のジェンダー関係への意識も変える、ということである。」[118]


「こうして「家庭」を貨幣タームでの収入と消費水準でとらえるかぎりは、「夫は仕事、妻は家事(と仕事)」の性別役割分担、それにもとづく「会社人間化」こそが、家庭にとって最適の、あるいは最もリスクの小さい「戦略」となる。」[120]


「私ならウォルビィの指摘をもじって、よりいい条件の職業をもつ妻と対等の関係を築くことが――したがって家庭責任をより平等に担うことが――会社にたいする夫の抵抗力を高めるといいたい。」[121]


「雇用の女性化は、製造業への中高年女性のパートタイマーとしての参入、第三次産業での中高年女性パートの増大とその賃金の相対的低下をともなったと見ることができる。それは女性労働の「縁辺労働力」的性格を強めこそすれ、うすめたとは考えがたい」[156]


労働力人口の女性比率については、日本は戦後一貫して40パーセント前後であり、いちじるしい増大を経験していない。」[167]


労働力人口ベースでこうした違いが出るのは、日本では女性就業者の多くが家族従業者として働いているからである。」[167]


「もとより私も、雇用の女性化における女性労働者の側の「選択」の要素を軽視するつもりはない。しかし、それが女性労働者個人というよりは、家計にとっての「合理的」な選択にすぎないことは、前章で見たとおりである。」[169]


「女性にとっての生活保障は、基本的には自分自身の、個人の資格によってえられるものではない。女性の第一の役割は、夫たる男性に家庭という基礎的な生活保障を提供することであって、彼女自身の生活は、夫が家庭という保障システムの外側にさらにどのような生活保障をもつかによって、付随的ないし反射的に保障されるにすぎないのである。」[178]


医療保険制度間の老人医療費負担の不均衡を是正する老人保健制度の創設(1982年度)、被保険者本人の一割自己負担、退職者医療制度の創設などを内容とする健康保険法改正(1983年度)、全国民共通の「基礎年金」の導入、給付と負担の「適正化」、「婦人の年金権の確立」などを内容とする年金制度改革(1985年度)、児童手当改革および児童扶養手当の「重点化」(1985年度)」[181]


社会福祉の柱としては、(新)生活保護法にさきだって導入された児童福祉法(1947年)、および身体障害者福祉法(1949年)があり、1951年には社会福祉事業法が制定された。また60年代の前半には、精神薄弱者福祉法(1960年)、老人福祉法(1963年)および母子福祉法(1964年)があいついで制定された。生活保護法と福祉処方をあわせて「福祉六法体制」ともよぶ。」[188-9]


「他方で、年金制度の再建、整備は1952年に始められ、54年には新厚生年金法が制定された。この54年法が今日にいたる厚生年金制度の骨格の大半を決めるとともに、そのさまざまな問題の起点にもなった。同法の特徴はつぎのとおりである。

(1)老齢年金給付の基本年金部分を、従来の報酬比例制一本から、定額部分と報酬比例部分との「二階建て」にし、これに加給年金(配偶者または子)部分をくわえた。
(2)1948年に暫定的に標準報酬の1000分の95から30へとひきさげられた保険料率をそのまま据えおき、財政方式を完全積立方式から修正積立方式に変えた。
(3)したがって年金給付水準もきわめて低く抑えられ、以後の賃金・物価の上昇のなかでいっそう価値を減じた。」[191-2]


「積立金がない賦課方式では利子収入もないために、給付費が大きくなった段階での保険料率が最も高くなる。そこで、制度が未成熟なあいだは、賦課方式よりは高いが平準率(=積立方式)よりは低い保険料率を課し、ある程度の積立金をもちながら保険料率を段階的にひきあげる(「段階保険料率」)ことで、その後の負担の増加を平準化する方式を「修正積立方式」という。」[192]


「実際、家庭基盤充実策として導入されたのは、配偶者の民法上の法定相続分のひきあげ(1980年)、84年以来の数次の税制改正をつうじたパート所得の特別減税(非課税限度額を79万円から100万円までひきあげ)および同居老親の特別扶養控除、「基礎年金」における「主婦の年金権」(1985年)、贈与税・所得税配偶者特別控除の導入・拡充(1985年、1987年)などであった(原田、1992b、50ページ。大脇、1992、244ページ)。[210]


「1970年代末から80年代前半に女性雇用者を大幅に増加させた国は、カナダ、アメリカ、日本、そしてイタリアなどだが、そのうち日本以外の国々では、増加の大部分がフルタイム雇用者による。これにたいして日本では、女性雇用者を10パーセント増加させながら、その大部分がパートタイマーだった。」[231]