アリストテレス『ニコマコス倫理学』(下)

ニコマコス倫理学〈下〉 (岩波文庫 青 604-2)

ニコマコス倫理学〈下〉 (岩波文庫 青 604-2)

「抑制と無抑制」について述べられる第七巻、各種の「愛」が考察される第八・九巻、「快楽」に関する諸説の検討と、「幸福」についての結論がなされる第十巻からなっている。

特に幸福に関する部分を読んでいて、アリストテレスが目的論的だと言われているのが何となく分かった。



「一部のひとびとの主張である、「過程」よりもそれの目指す究極の目的のほうがよりよきものである」というのに対応して、快楽よりも何らかよりよきものがそれ以外に存在していなくてはならないとする必然性は存しない。というのは、快楽は過程〔ゲネシス〕ではなく、また快楽は必ずしも過程〔ゲネシス〕に伴うわけのものではない。かえって、快楽は本来、「活動」(エネルゲイア)にほかならず、それ自身目的〔テロス〕なのである。」[54](太字は原文傍点)


「かくして、最も充分な意味における愛〔フィリア〕は、しばしば述べられたように、善きひとびとのあいだにおけるそれである。けだし、愛すべく好ましきものは、無条件的な意味での善または快であり、各人にとって愛すべく好ましきは彼自身にとっての善または快にほかならないと考えられるのであるが、善きひとは善きひとにとって、このどちらからいっても愛すべく好ましきひとなのだからである。愛情〔フィレーシス〕というものは情念であるが、こうした愛にいたっては一つの「状態」であるように思われる。けだし、愛情は無生物に対してもこれを持つことができるが、愛を持って愛に報いるということは「選択」の存在を予想するものであり、「選択」は、しかるに、「状態」に基づいている。のみならず、彼らがその愛する相手かたにとっての善を相手かたのために願望するということは、「情念」に即してではなく、自己のうちに定着した「状態」に即してでなくてはならない。のみならず、彼らは友を愛する事によって彼ら自身にとっての善を愛している。」[79-80](太字は原文傍点)


「快適であるのは現在については活動であり、未来については期待、過去については記憶であるが、そのうち最も快適なのは活動〔エネルゲイア〕の場合であり、それは同じくまた、最も愛すべきものでもある。」[129]


「それゆえ、おもうに、ひとはむやみに友人の多いことを求めることなく、生を共にするに耐えるほどの人数にとどめるがいいのである。事実、多数のひとびとに対して親友たることは不可能であると考えられなくてはならない。幾人をも恋愛することの不可能なのもこの同じ理由に基づいている。けだし、恋愛は友愛〔フィリア〕の過超ともいうべき意味を有するのであるが、このことは一人を相手としてこそ可能なのである。緊密な友愛もまたかくのごとく、少数者を相手とするほかはない。」[143]


「既述のごとく、幸福とは何らかの活動〔エネルゲイア〕にほかならないとなすべきであるならば、もし、だが「活動」には「必要のための活動、つまりそれ以外のことがらのゆえに望ましき活動」もあれば、また「即時的に望ましき活動」もあるとするならば、明らかに、幸福は「即時的に望ましき活動」に属するのであり、「それ以外のことがらのゆえに望ましいごとき活動」には属しないとしなくてはならない。幸福は何ものをも欠如せず、自足的なものなのだからである。」[170]


「また、幸福は閑暇(スコレー)に存すると考えられる。けだしわれわれは、閑暇を持たんがために忙殺(アスコレイン)されるのであり、平和ならんがために戦争を行なう。いったい、実践的なもろもろの卓越性(徳)の現実の活動は政事とか軍事とかの領域において行なわれるものだと考えられるが、これらの領域についてのわれわれの営みは、そういった非閑暇的な性質を有しているのであって、殊に軍事的なもろもろの営みのごときは完全にそうである。」[175]


「すなわち、それぞれのものに本性的に固有なものが、それぞれのものにとって最も善きもの、また最も快適なものなのである。ところで人間に固有なのは、知性〔ヌース〕に即しての生活にほかならない。まことに、人間は、彼のうちにおける他のいかなるものよりも、このものであるわけなのだから――。したがって、こうした生活が、また最も幸福な生活たるのでなくてはならない。」[177](太字は原文傍点)


「ソロンが幸福なひとを描いて、次のようなひとだとなしているのも、おもうに、適切である。いわく、外的なものをほどほどに給せられ、自らもって最もうるわしきことがらとなるところを行ない、節度ある仕方でその生涯を送ったひと――。実際、ほどほどのものを所有しておれば、まさになすべきところをなしうるのである。アナクサゴラスもまた、幸福なひととは富者や覇者であるとは考えなかったように思われる。彼は、幸福なひとが世人の眼には何となく奇妙な人間として映ったとしても自分は驚かないだろうといっている。」[181]


「さて、以上のようなことがらや、もろもろの卓越性(徳)についての、さらにまた愛〔フィリア〕や快楽についての概説が充分になされたならば、われわれの予定は目的を達したと考えられるべきであろうか。いな。実践とか行為の領域(タ・プラクタ)にあっては、それぞれのことがらを単に観照的に考察して、それを単に知るということがではなく、むしろそれらを行なうということが究極目的なのだといえるのではなかろうか。徳〔アレテー〕に関しても、だから、単にそれを知っているだけでは充分ではなく、われわれは徳をみずから所有してそれをはたらかせることに努め、ないしはまた、もし何らか他にわれわれが善きひとになる途があるならば、そういったことにも努めるのでなくてはならぬ。」[183]