山岸俊男『信頼の構造―こころと社会の進化ゲーム』

信頼の構造: こころと社会の進化ゲーム

信頼の構造: こころと社会の進化ゲーム

本書は,1つの中心的なメッセージをめぐって書かれている.集団主義社会は安心を生み出すが信頼を破壊する,というメッセージである.
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前に読んだやつ→『安心社会から信頼社会へ』『リスクに背を向ける日本人』

これも面白そう→『ネット評判社会』
あとちなみにほぼ日の記事



中心的なメッセージは、『安心社会から信頼社会へ』と共通している。というか、『安心社会から信頼社会へ』が本書の簡易版。
関連する研究や実験のセッティング・結果をより詳しく紹介しつつ、「信頼の解き放ち理論」から得られる命題を検証し、また信頼の解き放ち理論に残された「ミッシング・リンク」、すなわち「社会的不確実性と機会コストがともに大きな環境において、なぜ人々は自分にとって有利な特性である一般的信頼(本書での定義は、他者がどの程度信頼できるか判断材料がないときに用いられるデフォルト値)を身につけるか」について踏み込んでいる。


どの章も非常に興味深く勉強になったものの、もっとも興味深かったのは第5章の中の「実験の意味について」という節だった。

 本書では,本章で紹介した3つの実験をはじめ,いくつかの実験結果が,信頼についての理論を検討するために使われている.そういった実験について読みながら,読者はある疑問を抱いているだろう.実験の内容は面白いけれど,少数の非代表サンプルを使った実験から,どれだけ一般化が可能なのかという疑問である.筆者はこれまで,正確に数えたことはないが,多分100を越える実験を行い,その結果を様々な場所で発表してきた.心理学者や社会心理学者を相手に話をするときには,あまりこの疑問を投げかけられることはないが,社会学者や政治学者,経済学者などの社会科学者や,あるいは学生や一般の社会人を相手に話をする場合には,必ずと言っていいほどこの疑問に関連した質問が投げかけられることになる.極端な場合には,実験室実験の結果は実験室の外の現実には適用困難だという理由で,社会学関連の学術雑誌への論文の掲載が拒否されることも,これまでに何度か経験している.
 ここで指摘しておかなくてはならないのは,この疑問の背後には,社会科学における実験研究の目的についての根本的な誤解が存在している点である.その誤解とは,実験の目的は,実験室に作ったミニチュア社会の中での参加者の行動を観察して,そこで観察された行動を現実の社会に当てはめることにあるという誤解である.(中略)しかし,社会科学で行われている実験の多くは,このようなミニチュア・モデル型の実験ではない.つまり,実験室で観察された結果を現実社会に当てはめることを目的とした実験ではない.
 それでは,そういった実験の目的はどこにあるのだろう.そういった実験の目的は,理論を検証し発展させることにある.このことは,上の疑問との関連で,2つのことを意味している.1つは,この種の実験では,実験結果そのものを実験室の外に直接当てはめることを,そもそも考えていないという点である.重要なのは結果そのもの,あるいは参加者の行動そのものではなく,その行動が意味する,あるいはその行動によって検証される理論である.(中略)
 2番目に重要なのは,理論を検証するという目的のためには,サンプルの代表性は,あればあるに越したことはないが,必ずしも不可欠の条件ではないという点である.このことについては,もう少し説明する必要があるだろう.我々が実験を行うのは,理論から導かれた仮説が実験結果によって否定される可能性があるからである.否定される可能性がゼロであれば,実験を行う必要などまったくない.この意味では,実験の目的は,理論が正しいことを証明することにあるのではなく,理論が間違っていることを証明することにある.そして,理論が間違っていること,あるいは理論が成り立たないことを証明するためには,実験参加者が特定の集団を代表するサンプルである必要はない.どんなに偏ったサンプルを使った実験であれ,その結果が理論と一致しなければ,その理論のどこかにまずい部分があるはずだからである.例えば,ほとんどの人たちの間では理論と一致した結果が得られているが,一部の人たちの間ではそのような結果が得られないとしよう.このことは,理論が不完全であって,理論があてはまるタイプの人たちと当てはまらないタイプの人たちを区別する何らかの基準を,その理論が特定できないでいることを意味している.
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様々な研究方法にはそれぞれの利点があり、ある理論の妥当性を高めるためには、それらを組みあわせなければならないとのこと。
また、上記の2番目の点はpopulation heterogeneityの記述の話との関連を感じた。