Boudon (2003) "Beyond Rational Choice Theory"

Boudon, Raymond. 2003. "Beyond Rational Choice Theory." Annual Review of Sociology 29: 1-21.


* 合理的行為とはそれ自身が説明となり、さらなる疑問を招くことがない。すなわち、ブラックボックスを含まないというのが利点である。合理的な説明に対して、心理的説明・生物学的説明・文化的説明というのは説得性が劣る。


* 「初期ローマ帝国の人々が多神論を信仰していたのは、彼らがそう社会化されていたからだ」というのはブラックボックスを残している。社会化というのは価値がない概念というわけではないが、それは説明的ではなく記述的な概念である。


* 合理的選択理論は一連の公準からなる。(1)あらゆる社会現象は個人の意思決定・行為・態度による結果である。(2)少なくとも原則上は、行為とは理解可能なものである。(3)あらゆる行為は個人の心の中にある合理性によって引き起こされる。(4)合理性は個人が自らの行為の結果に対する考慮をすることに由来する(帰結主義)。(5)行為者はもっぱら自らの行為の結果に関心がある(利己主義)。(6)行為者は他の行為の費用と利益を計算し、また最も好ましい費用と利益のバランスを選ぶことができる(最適化)。


* 合理的選択理論によって多くの社会現象を説明することができる。例えば、西洋とソヴィエトの軍拡競争や、トクヴィルによる18世紀後半のフランス農業の停滞など。一方で、合理的選択理論で説明困難なものもある。例えば、投票のパラドックスである。ある個人の一票が投票結果に与える影響は非常に小さい。よって、投票に行く費用と比べた場合には、常に費用は利益を上回る。にもかかわらず、多くの人々は投票に行く。


* 合理的選択理論が弱みを持つ社会現象は3つの種類に分けられる。


* 第一に、非自明(noncommonplace)な信念に基いて行為者が選択を行う場合である。このような場合には、合理的選択理論は信念について何も教えてくれない。行為者がある信念を持つのは、行為者が受け入れている理論の結果であるとし、またその理論を受け入れることが合理的な行為であると仮定することはできる。しかし、そうした場合の合理性は道具的ではなく、認知的なものである。


* 第二に、行為者が非帰結主義的な規範的信念に従っている場合である。例えば最後通牒ゲーム(ultimatum game)の実験に見られるように、行為者が自らの利益に反する行為を行うような場合である。


* 第三に、個人的な利益に支配されているとはみなせないような振る舞いを含む社会現象である。例えば、死刑制度を考えると、ある個人にとっては自らの家族を含めて、制度に個人的に関わるということはほとんどない。にもかかわらず、多くの人々は死刑制度に対して強い意見を持っている。


* 上記の公準のうちの一部のみを考えると、(1)は方法論的個人主義と通常呼ばれるものになる。(1)と(2)でヴェーバー的な意味での理解社会学になる。(1)~(3)を合わせたものは、行為者の理性に基づいているという意味での合理的行為を想定した理解社会学になる。ここではこれを行為の認知的理論(cognitivist theory of action)と呼ぶ。


* 合理的選択理論の失敗は、すべての合理性を道具的なものに縮小してしまい、認知的合理性を無視してしまっていることによる。


* Rescherが言うように、目的論的(teleologial)であることと、道具的・帰結主義的であることは混同されてはならない。Rescherによれば、認知的合理性は正しい信念を獲得することに、価値(evaluative)合理性は正しい評価を行うことに、実質(practical)合理性は、適切な対象の効率的追求に関係している。これらはすべて目的志向であるが、その目的は多様である。ヴェーバーは価値合理性の概念を作り出すことによって、合理性は道具的なものに限られないという考え方を明確に支持していた。


* 行為の認知的理論に対する反論として、行為はしばしば誤った信念に基いており、それゆえに合理的とは言えないというものがある。しかしながら、誤った信念は強い根拠に基づいていることがあり、それゆえに合理的なのである。科学者はある認知的な文脈に基いて、後には誤りと明らかにされた主張を信じてきた。フロギストンの存在を信じた人々は、当時の認知的な文脈を所与とした場合に、その存在を信じる十分な根拠があったのである。


* 行為者はなぜある理性のシステムがよいものだと考えるのだろうか。Popperが述べたように、真実とは何かの一般的な基準はないと考えるべきである。しかし、Popperが述べたのとは異なり、反証の一般的な基準もないと考えるべきである。ある理論は、明らかに優れた代わりの理論が見つかってはじめて偽だと言えるのである。Priestleyはフロギストン説を信じる強い根拠を持っていた。それを偽だと考えられるようになったのは、Lavoisierがフロギストンの存在なしでも、Priestleyが説明した現象を説明可能だと示したからなのである。

 

  投票のパラドックスを、道具的合理性に基づく範囲内で解決しようとすると、人々は単に投票することが好きなのだとか、棄権したということを周囲の人々から非難されたくないからだとかいうようになるようです。またそれ以外に、カルヴィニストたちが自らの勤勉な態度こそが、救済をされることのサインだと考えたのだというヴェーバーの説明のように、投票に行く人々は自らが投票をするという意欲こそが、その候補が勝利するというサインだと考えているからだ、というような理論があるとのことです。