Ritzer and Stepnisky. 2013. Sociological Theory 9th Edition. Chapter 6. "“A Historical Sketch of Sociological Theory: The Later Years." pp.189-236.

Ritzer, George and Jeff Stepnisky. 2013. Sociological Theory 9th Edition. McGraw-Hill.

 

 

・アメリカにおいて社会学が成立した正確な時を与えるのは難しい。1858年には、オバーリン大学において社会問題についての科目が教えられていた。コントによる社会学という用語は1854年には使われており、1873年にはイェール大学で社会科学の科目が教えられていた。1880年代の半ばには、「社会学」と具体的に冠した科目が現れていた。最初の社会学部はカンザス大学において、1889年に設立した。アルビオン・スモールは、1892年にシカゴ大学に移り、新たな社会学部を立ち上げた。

 

初期のアメリカ社会学理論(Early American Sociological Theory)

  • 政治(Politics)

・初期のアメリカ社会学者は、政治的リベラルと表すことができ、初期ヨーロッパの理論家におけるような、保守主義者ではなかった。第一に、個人の自由(freedom)と厚生(welfare)に価値をおいていた。これは、コントのような集合的な立場ではなく、スペンサーにより影響されていたと言える。第二に、こうした立場であった多くの社会学者は、社会の進歩という、進化的な考えを抱いていた。しかしながら、どのようにしてこの進歩を達成するかについて、政府による社会改革を行うべきだと考える者もいれば、自由放任(laissez-faire)主義を強調する者もいた。
・リベラリズムはその極限において、保守主義に非常に近づく。政府による改革にせよ、自由放任主義にせよ、社会は進歩するという信念と、個人に価値を置いていることは両者に共通しており、このことによってシステムを全体としては支持させるのである。アメリカの事例においては、資本主義そのものに対して疑念が抱かれることはほとんどなかった。階級闘争が差し迫っているというのではなく、将来的な階級の調和と協調が起きると初期の社会学者たちは考えていた。これは突き詰めるところ、初期のアメリカ社会学理論は、搾取、国内・国外における帝国主義、および社会の不平等を合理化することの手助けを行ったということを意味する。

 

  • 社会変化と知的動向(Social Change and Intellectual Currents)

・アメリカの社会学理論の成立に関して、もっとも重要なのは、南北戦争以降に起きた社会変化である。初期のアメリカ社会学者たちは産業化のもたらすよい可能性を見出していたが、一方でその危険についても理解していた。これらの社会学者たちは労働運動や、社会主義団体のアイディアに引きつけられはしたものの、社会をラディカルに改良することについては賛成しなかった。
・宗教の影響についても指摘されている。アメリカの社会学者は世の中を救済するというプロテスタントの関心を維持し続け、宗教という言葉を科学という別の言葉に置き換えたにすぎないのである。1854年に最初の社会学の著作が現れてから、第一次世界大戦が発生するまで、社会学はアメリカの生活、思想、制度、教義における問題に対する道徳的・知的反応なのであった。
・アメリカにおける社会学の成立において、また別の大きな要因は、1800年代の後期にアカデミックな専門職(社会学を含む)と近代的な大学システムが同時に発生したことである。社会学が現れるより前に大学システムが確立されていたヨーロッパとは異なり、より流動的であったアメリカの大学システムにおいては、社会学が成立するのはより容易であった。
・初期アメリカ社会学における特徴として、歴史的な観点よりも、実証的あるいは「科学的」な志向というものがあった。長期的な歴史の変化を解釈するのではなく、短期的なプロセスを科学的に研究するという方向性が取られたのである。
・また別の要因は、すでに確立されたヨーロッパ理論の影響である。もっとも重要だったのはスペンサーとコントである。ジンメルも初期においてはある程度の重要性を持っていた。しかし、デュルケーム、ヴェーバー、マルクスは長年にわたり大きな影響は持たなかった。

 

ハーバート・スペンサーの社会学への影響(Herbert Spencer’s Influence on Sociology)
・スペンサーが初期のアメリカ社会学に影響を持った理由としてもっとも簡単なものは、コント、デュルケーム、マルクス、ヴェーバーとは異なり、彼が英語で書いたということである。くわえて、スペンサーは専門用語を使わずに書くことで、広く読まれることを可能にした。さらに重要なこととして、彼は人間の歴史を包括的に捉える総合的な理論を提示した。彼の理論は、産業化のプロセスに伴う痛みについて、社会はしだいに素晴らしい方向に向かっていると説明することで、人々をなだめ、安心させるものであった。
・アメリカにおけるスペンサーのもっとも有名な弟子はウィリアム・グラハム・サムナーであり、彼はスペンサーの社会的ダーウィニズム、自由放任主義を拡張した。スペンサーはまた、レスター・ウォード、チャールズ・ホートン・クーリー、E.A.ロス、ロバート・パークなどの初期アメリカ社会学者にも影響を持った。
・しかし、スペンサーのアイディアは、第一次世界対戦や、大きな経済不況といった社会問題の中では馬鹿げたものと考えられるようになった。1937年にタルコット・パーソンズは、社会学にとってスペンサーの思考はもはや生き残ってはいないことを宣言した。今日、スペンサーは歴史的な関心以上のものではないものの、彼のアイディアは初期のアメリカ社会学理論を形成する上で過去には重要であった。

 

  • ウィリアム・グラハム・サムナー(William Graham Sumner, 1840-1910)

・ウィリアム・グラハム・サムナーは、アメリカにおいて社会学と呼ぶことのできる最初の科目を教えた人であった。
・サムナーは、アメリカにおける社会的ダーウィニズムの主要な提唱者であった(ただし、後にその考えを変化させたようではあった)。
・サムナーは基本的に、適者生存(survival-of-the-fittest)のアプローチを社会的世界にも採用していた。スペンサーと同様に、人間は環境に対して闘い、もっとも生存に適したものが成功するとサムナーは考えたのである。またスペンサーと同様に、政府が失敗した人間を救済することには反対した。これは自然淘汰(natural selection)に介入することだからである。この理論システムは、資本主義の発達になじむものであり、富と権力による大きな格差を正当化するものとなった。
・サムナーは主に2つの理由により、歴史的な関心以上のものにはならない。第一に、社会的ダーウィニズムは一般的に、競争的な資本主義と現状を維持することの、粗雑な正当化にすぎないと考えられているためである。第二に、彼はイェール大学において、多くの子弟を擁する確固とした社会学の学派を築けなかったことである。こうした成功は後にシカゴ大学で起きることになる。

 

  • レスター・F・ウォード(Lester F. Ward, 1841-1913)

・レスター・ウォードは、長年にわたり連邦政府で古生物学者(paleontologist)として働いていたという、変わったキャリアを有している。この時期に彼はスペンサーとコントを読み、社会学への大きな関心を発展させた。1800年代の終わりと1900年代の初めに多くの著作を刊行したことにより、彼はアメリカ社会学会の最初の会長に選ばれた。その時期に彼は最初のアカデミックな地位であるブラウン大学に採用され、亡くなるまでそこに留まった。
・ウォードはサムナーと同様に、人間は下位の形態から現在の状態に進化するというアイディアを受け入れていた。彼は純粋社会学(pure sociology)という言葉で、社会学の課題の一つは、社会変化と社会構造の基本的な法則を研究することであると考えた。しかし、彼は応用社会学(applied sociology)という、よりよい社会を達成するために科学的知識を意識的に使うという、実践的な側面もあるべきだと考えた。彼は社会改革の必要性と重要性を信じていたので、極端な社会ダーウィニストというわけではなかった。
・サムナーとウォードは、社会学理論にとって長期的な影響を持たなかった。しかし、次に見るヴェブレンは長期的な重要性を有しており、さらに今日において影響が増している。

 

ソーステイン・ヴェブレン(Thorstein Veblen, 1857-1929)
・ヴェブレンは社会学者ではなく、主には経済学部の職に就いていた。さらに、経済学においても彼はあまり重要とはいえない人物(marginal figure)であったものの、社会学を含む数々の学問において現在にいたるまで重要性を持つ社会理論の根幹を生み出している。ヴェブレンにとって主要な問題は、「営利企業」(business)と「産業」(industry)の対立であった。営利企業とは、自らの企業の利潤を追求する所有者・指導者である。彼らは価格と利潤を高く維持するために、しばしば生産を制限する。このことは産業システムの障害となり、社会全体に対しても(例えば失業の増加などを通して)負の影響が生まれる。営利企業の指導者たちは、社会の中における多くの問題を生み出す源なのである。産業システムを理解し、社会全体の厚生に関心を持っている人々が社会を導かなければならないとヴェブレンは感じていた。
・今日におけるヴェブレンの重要性は主に、『有閑階級の理論』(The Theory of the Leisure Class)にたどることができる。ヴェブレンは有閑階級が無駄な消費(wasteful consumption)を促進する役割を持っていることに対して批判的であった(これらの人々は営利企業とも密接に結びついている)。他の人々に印象付けるために、有閑階級は、「顕示的閑暇」(conspicuous leisure)と、顕示的消費(conspicuous consumption)に従事する。顕示的閑暇とは非生産的なことに時間を使うことであり、顕示的消費とはある財に対して、本来の価値以上に金銭を費やすことである。他の社会階級は、この見せびらかしに影響され、直接的・間接的に有閑階級を模倣しようとする。この結果として生まれるのは、時間と貨幣の無駄を特徴とする社会である。『有閑階級の理論』におけるもっとも重要なことは、他の大半の社会学の研究とは異なり(そしてヴェブレン自身の他の著作とも異なり)、生産ではなく消費に焦点が当てられているということである。この著作は、現代の社会理論が生産ではなく消費に目を向けていることを予測していたとも言える。

 

ジョセフ・シュンペーター(Joseph Schumpeter, 1883-1950)
・ヴェブレンと同様にシュンペーターは経済学者であり、社会学者ではない。しかし、彼は社会学において重要な人物だと見なされており、特に経済社会学においてそうである。彼は資本主義の性質に関する研究においてもっともよく知られている。特に、創造的破壊(creative destruction)のプロセスについてである。これは彼の考えによると、資本主義システムの中心にあるものである。創造、あるいは革新(innovation)は資本主義の中心である。しかし、これは古く時代遅れな要素を破壊しない限り起こらない。これは資本主義のダイナミックな理論である。彼は自らのアプローチを、経済学において支配的である、より静的な理論(例えば、供給と需要に基づくもの)と対比し、これを強く批判した。

 

  • シカゴ学派(The Chicago School)

・シカゴ大学の社会学部は1892年に、アルビオン・スモール(Albion Small)によって設立された。スモールの学術研究は、彼がアメリカの社会学の制度化に対して担った役割に比べれば、今日的な意義は薄い。スモールは1894年に最初の社会学の教科書の発行に共同して取り組んだ。1895年には、American Journal of Sociologyを出版した。1905年には、アメリカ社会学会(the American Sociological Society)を共同で設立した(1959年に、the American Sociological Associationに改称)。

 

初期のシカゴ社会学(Early Chicago Sociology)
・初期のシカゴ社会学部は、一つには宗教との強い関わりという特徴を持っていた。構成員の中には自らが牧師の者もいたし、牧師の息子もいた。スモールも、「社会学の究極的な目標はキリスト教的なものである」という信念を持っていた。これが、社会学は社会改良(social reform)に関わるべきであるという考えに至り、さらに社会学は科学的であるべきだという考えと結び付けられた。

 

W.I.トーマス(W. I. Thomas, 1863-1947)

・1895年にシカゴ大学の研究員(fellow)になった。トーマスが影響力を持ち続けているのは、彼が社会学的な問題における科学的研究の必要性を強調したことにある。この主張は、1918年にフロリアン・ズナニエツキとの共著である『ヨーロッパとアメリカにおけるポーランド農民』(The Polish Peasant in Europe and America)を出版したことで結実した。マーティン・バルマーは、「抽象的な理論および机上の研究から、理論的フレームワークを用いた実証的な世界の研究に」社会学が移行したという点において、記念碑的な研究であると述べている。
・『ポーランド農民』は、主には社会制度のマクロ社会学的な研究であるが、トーマスはキャリアを経るごとにミクロな、社会心理学的な志向を持つようになった。これは、シカゴ社会学を特徴づける理論的な成果のひとつである、シンボリック相互作用論へ至ることになった。

 

ロバート・パーク(Robert Park, 1864-1944)

・パークは1914年にシカゴのパートタイムの講師(instructor)となった。彼はヨーロッパにおいて研究し、大陸ヨーロッパの理論を、シカゴ社会学に持ち込んだ。パークはジンメルの講義を受け、特に行為と相互作用についてのアイディアを取り入れた。また、彼は社会学者になる前は記者として働いており、この経験は彼にとって都市問題の重要性と、フィールドに出て自らの観察によってデータを集めることの重要性を認識させた。さらにパークは1921年に、アーネスト・W・バージェスとともに、重要であるということができる最初の社会学の教科書、『社会学という科学への入門書』(Introduction to the Science of Sociology)を出版した。
・1920年代の終わりから1930年代の初めにかけて、パークはシカゴで過ごす時間が少なくなった。結果的に、彼の生涯の関心が人種間の関係にあったために、1934年にフィスク大学(黒人の大学)に移ることになった。シカゴの社会学部の衰退はパークが離れたことのみによるものではないが、1930年代にはシカゴの地位は揺らぐことになった。

 

チャールズ・ホートン・クーリー(Charles Horton Cooley, 1864-1929)
・クーリーは、ミシガン大学でキャリアを経ていた。しかし、彼の理論的なパースペクティヴは、シンボリック相互作用論と一致するものであった。
・クーリーは、社会階級、社会構造、社会制度などの大規模な現象について理論化したが、今日覚えられているのは、社会生活の社会心理学的な側面への洞察によるものである。この領域における彼の研究は、ミードと一致するところがある(ただし、ミードはより深く持続的な影響を持った)。クーリーは意識について関心を持っていたが、彼はミードと同様に、意識を社会的な文脈から分離することには反対した。このことは、今日でも残っている彼の概念、「鏡に映った自己」(looking-glass self)という概念にもっともよく表れているといえる。
・クーリーの社会心理学的な関心を表す2つ目の概念は、一次集団(primary group)である。一次集団とは、親密(intimate)であり、また直接顔を合わせる(face-to-face)集団であり、行為者をより大きな社会に結びつける役割を担っている。若者にとって特に重要な一次集団は、家族と仲間集団である。こうした集団の中において、鏡に映った自己は発生し、自己中心的な子どもは他者を考慮するようになり、社会へ貢献する一員となるのである。
・クーリーとミードはともに、人間についての行動主義的(behavioristic)な見方を否定した。これは、人間が外的刺激に対して無意識に反応するというものである。クーリーは、意識を分析する上で、共感的内省(sympathetic introspection)の方法を用いた。行為者が様々な状況においてどのように振る舞うかを分析することによって、社会学者は意味と動機を理解できるというものである。この方法は非常に非科学的なものに見える。この領域においては、ミードの研究がクーリーよりも優れている。

 

ジョージ・ハーバート・ミード(George Herbert Mead, 1863-1931)
・シカゴ学派とシンボリック相互作用論に関してもっとも重要な理論家は、社会学者ではなく哲学者であった、ミードである。ミードは1894年から亡くなる1931年まで、シカゴ大学で哲学を教えた。ミードは哲学の学部において、社会心理学の科目を教えた。そして、多くの社会学の大学院生がこれを受講した。これらの学生はミードのアイディアを、パークやトーマスによって教えられた内容と結合させた。その当時は、シンボリック相互作用論という名の理論は存在していなかったが、こうした様々なインプットから学生がそれを生み出したのである。そして、これらの学生はミードの講義において取ったメモを組み合わせ、ミードの死後に彼の名で、『精神、自我、社会』(Mind, Self and Society)を出版したのである。
・ミードはアメリカ社会学にたいして、ヨーロッパの理論家とは異なった社会心理学的な理論をもたらした。もっとも重要な例外はジンメルである。シンボリック相互作用論は、ジンメルの行為と相互作用への関心と、ミードの意識への関心から発展させられたのである。

 

シカゴ社会学の衰退(The Waning Chicago Sociology)
・1920年代にシカゴの社会学はその頂点に達した。しかし、1930年代までに、ミードが亡くなり、パークが離れたことにより、アメリカ社会学における中心的な立場を失いはじめることになった。
・第一に、社会学はだんだんと科学的、すなわち洗練された方法と統計分析を用いるようになった。しかし、シカゴ学派は記述的でエスノグラフィー的な研究を重視していると見なされていた。パークはしだいに統計学を軽蔑するようになり、これを「うわべだけの魔法」(parlor magic)と呼んだ。なぜなら統計学は、個別で独自的な主観性の分析を不可能にすると思えたからである。
・第二に、シカゴ以外の多くの人々が、アメリカ社会学会とAmerican Journal of Sociologyにおけるシカゴの独占に対して腹を立てるようになった。東部社会学会(The Eastern Sociological Society)が1930年に設立された。1935年までにシカゴに対する反乱は、新たな雑誌、American Sociological Reviewの発行に至った。シンボリック相互作用論は、非常に不明瞭(indeterminate)なものであった。結果的に、構造機能主義などのより明確で体系化された理論的システムにとって代わられ、ハーバード大学や、アイヴィー・リーグの大学が中心になっていった。
・シカゴ大学がアメリカ社会学の中心に戻ることはなかったが、1950年代になっても力を保っていた。ハーバート・ブルーマー(Herbert Blumer, 1900-1987)は、1952年にバークレーに移るまで、重要な人物であった。シンボリック相互作用論という言葉を作り出したのは彼である。

初期の社会学における女性(Women in Early Sociology)

・デュルケーム、ヴェーバー、ジンメルがヨーロッパ社会学を生み出していた時期や、シカゴ大学が成長していた時期に、社会改革者のネットワークを作り上げていた女性たちが、先駆的な社会学理論を発展させていた。彼女たちの中には、ジェーン・アダムス(Jane Addams, 1860-1935)、シャーロット・パーキンズ・ギルマン(Charlotte Perkins Gilman, 1860-1935)、アンナ・ジュリア・クーパー(Anna Julia Cooper, 1858-1964)、アイダ・ウェルス-バーネット(Ida Wells-Barnett, 1862-1931)、マリアンネ・ヴェーバー(Marianne Weber, 1870-1954)、ビアトリス・ポッター・ウェッブ(Beatrice Potter Webb, 1858-1943)が含まれる。クーパーを例外として、彼女たちはみなジェーン・アダムスとの関係に結びつけられる。従来の社会学の歴史において、彼女たちが社会学者あるいは社会理論家として知られていないことは、社会学の内部においてジェンダー政治の権力が存在することの恐ろしい証拠であり、また社会学が自らの実践において無反省・無批判であることの証拠である。
・彼女たちの理論の特徴には、次のようなものが含まれる。(1)女性の経験と生活、仕事は男性のそれと同等の重要性があると強調していること。(2)状況化・具体化された視点から語ることが意識されており、男性の社会学理論が、権威的に理論の構築をする際に見られるような、横柄な客観性(imperious objectivity)とは異なっていること。(3)社会学および社会学理論の目的は、社会改良、すなわち知識を通じて人々の生活を改善することにあるという考え。(4)同時代における改善すべき主要な問題は不平等にあるという主張。これら初期の女性たちがもっとも異なっていたのは、改善されるべき不平等が、ジェンダーなのか、人種なのか、階級なのか、あるいはこれらが交差するところにあるのか、ということだった。しかし、全員が自らの考えを社会的・政治的な改革運動に変換した。

W.E.B.デュボイスと人種理論(W.E.B. Du Bois and Race Theory)

・W.E.B.デュボイス(1868-1963)は、社会学部において長い間教えていたものの、彼は普通は社会学者としては見なされておらず、ましてや理論家とは見なされていない。彼はそれよりも公的な知識人として、また様々な公民権団体の設立においての、先導的な役割によって知られている。しかしながら、彼の著作の多くには理論とみなせる、多くの抽象的なアイディアが存在する(ただし、彼はマルクスと同様に理論と実践を区別することは嫌った)。
・デュボイスの社会学における評価は、実証的な研究である『フィラデルフィアの黒人』(The Philadelphia Negro)によるところが大きい。このフィラデルフィアの第7区の研究は、デュボイスひとりによって行われた。多数の方法が用いられているものの、先駆的なエスノグラフィーがもっとも知られている。彼はいくつかの自伝研究において、興味深い理論的アイディアを展開している。もっとも知られているのは、『黒人の魂』(The Souls of Black Folk)である。彼の理論的アイディアのひとつは、ヴェール(veil)というものであり、黒人と白人の間に明確な分離を生み出すものである。これによってイメージされるのは、壁(wall)ではなく、薄く、穴が空いていて、その穴を通して互いの人種が見えるものの、互いを分離しているというものである。また別の重要な理論的アイディアは、二重意識(double-consciousness)というものであり、黒人は自分自身について、他者を通して見たり評価したりするという意識である。

 

20世紀半ばまでの社会学理論(Sociological Theory to Midcentury)

  • ハーバード、アイヴィー・リーグ、構造機能主義の隆盛(The Rise of Harvard, the Ivy League, and Structural Functionalism)

・ハーバードの社会学の隆盛については、1930年にピトリム・ソローキン(Pitrim Sorokin)が着任したことに遡ることができる。ハーバードには、その時には社会学部は存在していなかったものの、着任の一年目には設立され、ソローキンは学部長に任命された。今日では、ソローキンの理論は重要であるとは見なされていない。彼の長期的な意義は、ハーバードに社会学部を設立し、(ハーバードの経済学の講師であった)タルコット・パーソンズを社会学の講師に採用したことにあると言ってよいだろう。

 

タルコット・パーソンズ(Talcott Parsons, 1902-1979)
・パーソンズは初期にいくつかのエッセイを刊行したが、この時期における彼の大きな貢献は、大学院生に対する影響にある。この中でもっとも有名なのは、ロバート・マートン(Robert Merton)であり、1936年に博士号を取得し、コロンビア大学においてパーソンズ流の理論の中心となった。同じく1936年にキングスリー・デイヴィス(Kingsley Davis)が博士号を取得し、1940年にハーバードで学位を得たウィルバート・ムーア(Wilbert Moore)とともに、構造機能主義理論の中心的な著作のひとつを書いた。
・パーソンズとアメリカの社会学理論にとって重要な年は1937年、『社会的行為の構造』(The Structure of Social Action)を出版した年である。この本は主に4つの理由により重要である。第一に、ヨーロッパの理論の全体を多くのアメリカの読者に対して紹介するという役割を担った。この本の多くは、デュルケーム、ヴェーバー、パレートに割かれている。パーソンズによる解釈は、アメリカ社会学におけるこれらの理論家たちのイメージとして、長年にわたり影響した。第二に、パーソンズはマルクスとジンメルにはほとんど注意を向けなかった。結果として、マルクスの理論は正統的な社会学からはほとんど排除され続けた。
・第三に、『社会的行為の構造』は、社会学における理論化は、正統的で重要な活動であるということを示した。
・最後に、パーソンズは社会学に深い影響を持つことになった、固有の社会学理論を主張したということである。当初は、パーソンズは行為についての理論家であると見なされ、自身もそう見なしていた。しかし、彼は後期の著作において、大規模な社会・文化システムに焦点を当てる、構造機能主義の理論家と見なされるようになっていった。パーソンズはこれらの理論の間に矛盾はないと主張したが、彼は構造機能主義者としてもっとも知られるようになり、またこの理論は1960年代まで支配的な地位を得た。
・構造機能主義理論におけるパーソンズの主な主張は、1950年代の初期にいくつかの著作で現れた。特に、『社会システム』(The Social System)である。パーソンズは、社会の様々な構造とそれらの相互の関係について取り組んだ。これらの構造は、お互いに支えあい、ダイナミックな均衡に向かっていると見なされた。社会の様々な要素の中で、秩序(order)がどのように維持されるのかということが強調された。パーソンズは社会システムそれ自体ではなく、社会システムと他の行為システム、特に文化システムと人格システムとの関係に焦点を当てた。彼の基本的な考え方は、様々な社会構造は、互いに様々な正の機能(positive functions)を果たしているというものだった。
・アメリカの社会学理論の歴史の中で、パーソンズは数々の重要で有益な役割を担ったが、彼の研究は悪い結果ももたらした。第一に、彼はヨーロッパの理論家について、彼自身の理論的志向を反映した解釈を提示した。第二に、キャリアの初期において、パーソンズはマルクスをほとんど無視した。第三に、パーソンズがアメリカ社会学において卓越した存在であったことにより、彼の理論の欠陥についての批判は長年にわたり沈黙させられることになった。

 

ジョージ・ホマンズ(George Homans, 1910-1989)
・裕福なボストン人であったホマンズは、1932年にハーバードから学士号を得た。大恐慌の結果、彼は失業したが、無一文ではなかった。1932年の秋に、生理学者のL.J.ヘンダーソンは、ヴィルフレード・パレート(Vilfredo Pareto)についての科目を開講し、ホマンズはこれに参加するよう招待された。彼はこれを承諾した。ホマンズはなぜパレートのセミナーに出たかについて、裕福な共和党支持者である自分にたいして、パレートは弁護を与えてくれると感じたからだという。ホマンズはパレートにふれたことで、『パレート入門』(An Introduction to Pareto)を1934年に出版した。
・1934年にホマンズはハーバードにおいて、若手研究員(junior fellow)に任命された。これは、Ph.Dプログラムにともなう問題を避けるものであった。実際のところ、ホマンズは当時の主要な社会学者であったにもかかわらず、博士号を得ることはなかった。
・パーソンズによって社会関係(social relations)についての学部が新たに設立され、ホマンズはそこに加わった。ホマンズはパーソンズの研究の一面を尊敬していたが、その理論化のスタイルについては厳しく批判した。ホマンズは、パーソンズの理論は理論とは呼べず、社会的世界の大部分が当てはまる知的カテゴリーがたくさん集まったものにすぎないと考えた。さらに、理論は社会的世界の注意深い観察に基づくべきだとホマンズは信じていた。しかし、パーソンズの理論は、一般的な理論水準から始まり、実証的な水準に下りてくるものだったのである。
・ホマンズの重要な理論は、心理学的な行動主義であった。それは、ハーバードの心理学者であるB.F.スキナー(Skinner)のアイディアにもっとも現れているものであった。これに基づき、ホマンズは交換理論(exchange theory)を発展させた。

 

  • マルクス主義理論の発展(Developments in Marxian Theory)

・1900年代の初期から1930年代まで、マルクス主義理論は主流の社会学理論とは大きく離れて発展してきた。少なくとも部分的には例外といえるのは、初期のヘーゲル主義的マルクス主義から生まれた批判学派、あるいはフランクフルト学派である。
・マルクス主義を発展させる学派をつくるというのは、フェリックス・J・ヴァイル(Felix J. Weil)のアイディアである。1923年に、フランクフルト社会研究所(Institute of Social Research)が設立された。年を経るにつれて、マルクス主義理論において有名な理論家のほとんどが批判学派に関係を持つようになった。これらは、マックス・ホルクハイマー(Max Horkheimer)、テオドール・アドルノ(Theodor Adorno)、エーリッヒ・フロム(Erich Fromm)、ヘルベルト・マルクーゼ(Herbert Marcuse)、そしてより近年では、ユルゲン・ハーバーマス(Jurgen Habermas)、アクセル・ホネット(Axel Honneth)である。
・社会研究所は1934年までドイツで活動していたが、ナチス政権の下で状況はだんだんと悪くなっていった。ナチスはマルクス主義のアイディアを利用することはほとんどなく、また社会研究所にゆかりのある多くの人々はユダヤ人であったために、ナチスは敵意を強めることになった。1934年に所長であったホルクハイマーは社会研究所を、ニューヨークのコロンビア大学に移すように招待された。マルクス主義理論の中心は、資本主義世界の中心に移ることとなったのである。戦後、社会研究所は1949年にドイツに戻されることになった。
・批判理論のもっとも重要な側面をいくつか強調すると、初期においては非常に伝統的なマルクス主義者であり、関心のかなりの部分は経済の領域に向けられていた。しかし、1930年前後には、経済システムから文化システム、特に「文化産業」(culture industry)へと関心が変えられた。これらの対象は近代資本主義社会における主要な力であると見なされたのである。これは、初期のヘーゲル主義的マルクス主義者、例えばジェルジ・ルカーチ(Georg Lukács)などの拡張とみなすことができる。文化の領域を理解する上で、批判理論家たちはマックス・ヴェーバーの研究に惹きつけられた。マルクスとヴェーバーを一体化させる試みは、「ヴェーバー主義的マルクス主義」(Weberian Marxism)を生み出した。
・第二の大きな一歩は、批判学派のうちある程度の人々が、アメリカの社会学者によって発展させられた厳密な社会科学の方法を用いたことである。このことによって批判学派は、ヴェーバー理論を採用したことと同様に、主流の社会学者たちに受けいれられやすくなった。
・第三に、批判理論家は、個人志向であったフロイト理論と、マルクスおよびヴェーバーの社会・文化レベルの理論を統合させた。このことは、マルクスあるいはヴェーバー単独であるよりも、より包括的な理論を提示したという印象を多くの社会学者に与えた。
・批判理論は1920年代から多くの有益な研究を生み出したが、多くのアメリカの理論家によって「発見」されたのは、1960年代後期になってからであった。

 

  • カール・マンハイムと知識社会学(Karl Mannheim and the Sociology of Knowledge)

・カール・マンハイム(Karl Mannheim, 1893-1947)は、ハンガリーに生まれ、初めはドイツに、後にイギリスに移ることを余儀なくされた。彼はマルクスおよび、ヴェーバー、ジンメル、ルカーチのイデオロギーについての研究に影響された。
・マンハイムは、知識社会学の領域を生み出したことでもっともよく知られている。基本的に、知識社会学とは知識、アイディア、あるいは知的現象一般の体系的な研究を行うものである。マルクスは人々の考え方を社会階級に関連づけたが、マンハイムはこの視点を拡張し、人々の考え方を社会における様々な位置(例えば、世代)に関連づけた。
・マンハイムはまた、2つの理念システム、すなわちイデオロギーとユートピアを区別したことでも有名である。イデオロギーとは、過去の視点から現在を解釈し、現在を隠蔽し守ろうとするものである。これに対してユートピアは、未来に着目することで、現在を超えようとする理念システムである。イデオロギーとユートピアの対立が、絶えず存在する社会の現実なのである。

20世紀半ばからの社会学理論(Sociological Theory from Midcentury)

  • 構造機能主義:絶頂期と衰退(Structural Functionalism: Peak and Decline)

・1940年代と1950年代は逆説的であるが、構造機能主義の最大の支配と、衰退の始まりの時期であった。この時期に、パーソンズは行為理論から構造機能主義へと転換したことを示す主な主張を行っている。
・理論的なヘゲモニーを獲得すると同時に、構造機能主義は批判にさらされるようになった。これらには、C.ライト・ミルズ(C. Wright Mills)、デイヴィッド・ロックウッド(David Lockwood)、アルヴィン・グールドナー(Alvin Gouldner)、アーヴィング・ホロウィッツ(Irving Horowitz)が含まれる。
・ジョージ・フアコ(George Huaco)は、構造機能主義の隆盛と衰退を、世界秩序におけるアメリカ社会の位置と関連させている。第一に、「すべてのパターンはより大きなシステムの維持と生存に寄与する」という構造機能主義の考えは、アメリカとそのヘゲモニーの称賛にすぎないというものである。第二に、構造機能主義が均衡(equilibrium)を重視すること(もっともよい変化とは変化しないことである)は、アメリカの利害とかみ合うものであった。アメリカが1970年代に世界における優越性を失いはじめたことと、構造機能主義が社会学理論において傑出した位置を失ったことは同時に起きた。

 

  • アメリカにおけるラディカル社会学:C.ライト・ミルズ(Radical Theory in America: C. Wright Mills)

・主流のアメリカ社会学者からは、マルクス主義理論はほとんど無視されたか、あるいは非難されたものの、例外は存在する。もっとも重要であるのはC.ライト・ミルズ(1916-1962)である。ミルズはマルクス主義者ではなかった。そもそも彼は1950年代の半ばまでマルクスを読んでいなかった。またその時でさえ、わずかな英訳しかないという制約があった。ミルズはドイツ語が読めなかったためである。ミルズは主要な著作をその当時までに世に出していたために、彼の研究は洗練されたマルクス主義理論の形をとることはなかった。
・ミルズはラディカル政治を反映した主に2つの著作を出している。また、これらはマルクス主義理論から見た彼の欠点も反映している。第一に、ホワイトカラー(White Collar, 1951)である。これは、ホワイトカラー労働者が職業カテゴリーの中で地位を増していることへの、辛辣な批判である。第二に、パワー・エリート(The Power Elite, 1956)である。これは、アメリカが企業家・政治家・軍事指導者という小さな集団によって、どれほど支配されているかを示そうとしたものである。この間に、彼のもっとも理論的に洗練された研究であり、ハンス・ガース(Hans Gerth)との共著である、『性格と社会構造』(Character and Social Structure)がある。
・ミルズはそのラディカリズムによって、アメリカ社会学の周辺に位置づけられている。彼は多くの批判の対象になり、そして彼は逆に社会学の強烈な批判者となった。その批判的態度は、『社会学的想像力』(Sociological Imagination, 1959)において、頂点に達した。特にミルズは、パーソンズとその一般理論に対して厳しく批判した。

 

  • 葛藤理論の発展(The Development of Conflict Theory)

・他に、マルクス主義が真に社会学理論に取り入れられる前の先駆者として、構造機能主義に対する葛藤理論の発展がある。構造機能主義に対する批判の一つとして、政治的に保守的であり、静的な構造を重視することで社会変化を扱うことができないというものがあった。
・この批判の結果の一つとして、多くの社会学者は構造に葛藤への利害を組み入れようとした。この取り組みは葛藤理論の発展に寄与することとなった。しかし残念なことに、葛藤理論はそれ自身の知的な全体性というものが存在せず、単に構造機能主義を鏡に映したものにすぎないように見える。
・第一の取り組みとして挙げられるのは、ルイス・コーザー(Lewis Coser)による、社会的な葛藤の機能に関する研究である。この研究は葛藤の機能に関して有益なものを示しているが、葛藤について研究すべきことは、積極的な機能のみではない。
・ほとんどの葛藤理論において最大の問題は、もっとも必要なものである、マルクス主義理論を欠いていることである。この例外の一つは、ラルフ・ダーレンドルフ(Ralf Dahrendorf, 1929-2009)の研究である。
・ダーレンドルフはヨーロッパの学者であり、マルクス主義理論に精通していた。ダーレンドルフの主要著作である、『産業社会における階級と階級闘争』(Class and Class Conflict in Industrial Society, 1959)は葛藤理論におけるもっとも影響ある作品である。これは主流の社会学者にも受け入れられるものであった。ダーレンドルフは構造機能主義と同じ分析のレベル(構造と制度)において研究を行ったのである。ダーレンドルフは、社会システムは互いに調和する側面があるにもかかわらず、多くの葛藤と緊張がまた存在するということを認識していた。
・葛藤理論はマルクス主義理論の方向に十分に向かわなかったため、失敗した。1950年代と1960年代は、アメリカ社会学が完全にマルクス主義的なアプローチを受け入れるにはまだ早すぎたのである。

 

  • 交換理論の誕生(The Birth of Exchange Theory)

・1950年代における、また別の重要な理論的な発展は、交換理論である。この発展における重要人物は、ジョージ・ホマンズ(George Homans)である。B.F.スキナー(Skinner)の心理学的行動主義が、交換理論の大きな源泉となっている。
・当初ホマンズは、スキナーが鳩の行動を説明するために発展させた命題が、人間の社会行動を理解する上でどのように役立つのかわからなかった。しかし、ホマンズは社会学の研究におけるデータと、原始社会についての文化人類学の研究をさらに見てゆくうちに、スキナーの行動主義は適用可能なものであり、またそれはパーソンズ流の構造機能主義の代わりになるものだと考えるようになった。これは1961年に、『社会行動:その基本形態』(Social Behavior: Its Elementary Forms)として結実することとなった。
・ホマンズの基本的な考え方は、社会学の根本は個人の行動と相互作用の研究にあるというものだった。彼はほとんどの社会学者の関心であるような、意識や大規模な構造や制度といったものにはほとんど関心がなかった。彼の主な関心は人々を行為に導く強化(reinforcement)のパターンと、報酬と費用の過程であった。ホマンズは、人々は以前に報酬がもらえるとわかった行為を続けると考えた。逆に、人々は費用がかかると以前にわかった行為は止めるのである。
・その名前が示すとおり、交換理論は個人の行動だけではなく、報酬と費用の交換に関わる人々の相互作用にも関心がある。そこでの前提は、報酬の交換がある場合に相互作用は続きやすいというものである。
・交換理論における別の主要な研究は、ピーター・ブラウ(Peter Blau)が1964年に出した、『社会生活における交換と権力』(Exchange and Power in Social Life)である。ブラウは基本的にはホマンズの立場を採用したが、重要な違いもある。ホマンズは主に社会生活の基本形態を扱うことで満足していた。しかし、ブラウは行為者間の交換から出現する、構造的・文化的なレベルにおける交換へと統合させたかった。
・長年にわたりホマンズとブラウの影に隠れていたものの、リチャード・エマソン(Richard Emerson)が交換理論の中心的な人物となっている。彼は、交換理論におけるミクロ-マクロの統合へのアプローチにおいて特に有名である。

 

  • ドラマツルギー分析:アーヴィング・ゴッフマンの研究(Dramaturgical Analysis: The Work of Erving Goffman)

・アーヴィング・ゴッフマン(1922-1982)は、オリジナルなシカゴ学派に関連する最後の主要な理論家だと、しばしば見なされている。
・ゴッフマンのドラマツルギー理論について、もっとも有名なのは1959年に出版された、「日常生活における自己呈示」(The Presentation of Self in Everyday Life)である。単純に言えば、ゴッフマンは劇場における演技と、日常の行為や相互作用に共通性が多くあることを見出した。相互作用とは非常にもろいものであり、社会的な演技によって維持されているのである。
・ゴッフマンは舞台(stage)と社会的な相互作用の比喩について考察を進めた。すべての社会的な相互作用においては、表舞台(front region)が存在し、これは劇場における表舞台と類似している。舞台における俳優と社会生活における行為者はどちらも見た目、衣装、小道具に気を使っている。また、劇場と社会生活のどちらにおいても、舞台裏(back region)が存在し、こちらでは演技者は身を隠し、演技に備えることができるのである。舞台裏では演技者は役割を捨てて、自分自身になることができるのである。
・ドラマツルギー分析は、その起源であるシンボリック相互作用論と一貫しており、行為者、行為、相互作用を重視している。

 

  • 日常生活についての社会学の発展(The Development of Sociologies of Everyday Life)

現象学的社会学とアルフレッド・シュッツの研究(Phenomenological Sociology and the Work of Alfred Schtz)
・現象学的哲学は、その意識への関心とともに、長い歴史を有する。しかし、現象学の社会学的な変種については、アルフレッド・シュッツが1932年にドイツで出版した、『社会的世界の現象学』(The Phenomenology of the Social World)に遡ることができる。シュッツは、どのように人々が自らの意識の連続性を持ちつつ、他者の意識を把握するのかということに関心を持っていた。シュッツはまた、間主観性(intersubjectivity)を大きな意味で用い、社会的世界への意識、特に知識の社会的性質を意味することに用いた。
・シュッツの研究の多くは、生活世界(life-world)という社会的世界の側面に焦点を当てている。生活世界とはすなわち日常生活の世界である。これは間主観的な世界であり、人々は社会現実を作り出し、同時にそれまでに作られた社会的・文化的構造に拘束される。生活世界の中で、シュッツは親密な対面の関係である、「われわれ関係」(we-relations)と、遠く非人間的な関係である、「彼ら関係」(they-relations)を区別した。
・一般的に言って、シュッツは人々が社会現実を構成することと、確固として存在する社会現実・文化現実の間にある弁証法的な関係に関心を寄せた。

 

エスノメソドロジー(Ethnomethodology)
・重要な違いはあるものの、エスノメソドロジーと現象学は密接に関係している。この理由の一つは、ハロルド・ガーフィンケル(Harold Garfinkel)が、シュッツの生徒であったことによる。興味深いことにガーフィンケルは、パーソンズの下で研究していたことがあった。エスノメソドロジーが際立った特徴を有する上で、パーソンズとシュッツのアイディアを混ぜあわせたことが役に立っている。
・基本的に、エスノメソドロジーとは「社会における普通の人々が自己を見つめるような状況において、意味付けを行ったり、自らのやり方をみつけたりするような状況における、一連の常識、様々な手続きや熟慮について」の研究である。現象学的社会学が、人々がどのように考えるかを重視する傾向があるのに対して、エスノメソドロジストは会話の深い研究に大きな注意を払う。日常に対するそのような関心は、多くの主流社会学の関心である、官僚制、資本主義、分業、社会システムなどの抽象的なものとは対極にある。

 

  • マルクス主義社会学の隆盛と衰退(?)(The Rise and Fall (?) of Marxian Sociology)

・1960年代の後期に、マルクス主義理論はついに、アメリカの社会学理論において大きく取り込まれることになった。
・アメリカの理論家は特に、批判学派の研究に惹きつけられた。これは批判学派がマルクスとヴェーバーの理論を融合させていたことが大きい。
・こうした関心の増大とともに、制度的なサポートが行われるようになった。 Theory and Society, Telos, Marxist Studiesといった学術誌がマルクス主義の社会学理論に注意を向けるようになった。1977年にはアメリカ社会学会にマルクス主義のセクションが設けられた。批判理論の第一世代だけではなく、第二世代の理論家であるユルゲン・
ハーバーマス(Jurgen Habermas)、第三世代のアクセル・ホネット(Axel Honneth)なども広く知られるようになった。
・アメリカ社会学において、マルクス主義の観点からの重要な研究の発展は、ひとつは歴史社会学である。例えば、スコッチポル(Skocpol)やウォーラーステイン(Wallerstein)の研究である。他には、経済の領域を社会学的な観点から分析したものであり、バラン(Baran)とスウィージー(Sweezy)、ブレイヴァマン(Braverman)、ビュラウォイ(Burawoy)などである。さらには、非常に伝統的な実証的社会学でありながら、マルクス主義理論を強く意識しているコーン(Kohn)の研究が挙げられる。また、比較的近年の有望な発展として、空間的マルクス主義(spatial Marxism)がある。ハーヴェイ(Harvey)などの多くの社会理論家が社会地理をマルクス主義的な観点から研究している。
・しかし、ソビエト連邦の崩壊や世界各国のマルクス主義レジームの凋落により、マルクス主義理論は1990年代に困難に直面することになった。ある人々は古いままのマルクス主義者として残り続けた。別の人々はマルクス主義理論の修正を迫られることになった。さらに別の人々はマルクス主義理論を放棄するべきだと結論づけた。三番目の立場を代表するのは、ロナルド・アロンソン(Ronald Aronson)である。彼は、マルクス主義理論を研究する人々が残るであろうことは認めたものの、それはマルクスが意図したような社会の基礎を変革するようなプロジェクトにはもはやならず、実践の存在しない理論であることを認識すべきだと警告した。
・ネオマルクス主義理論は、大きな地位は有していないものの、グローバリゼーションを踏まえると、小さなルネッサンスの中にある。グローバリゼーションによって、富める国がますます富むという、マルクスが信じた抑えのない資本主義が現れたと考えている人々は多くいる。

 

  • フェミニスト理論の申し立て(The Challenge of Feminist Theory)

・1970年代の後期、ちょうどマルクス主義社会学がアメリカにおいて大きく受容された時期に、フェミニスト理論という別のラディカルな思想が、確立された社会学理論に(さらにはマルクス主義社会学自体にも)申し立てを行った。
・アメリカでは1920年に、女性は投票する権利を獲得した。これはすべての男性に権利が拡張された55年後のことである。その後の30年間はアメリカの女性運動は弱まったものの、1960年代によみがえることになった。これには3つの要因がある。(1)この時代を特徴付ける、批判的な志向という、一般的な風潮。(2)反戦運動、公民権運動、学生運動に集まった女性が、これらの運動にいたリベラル・ラディカルの男性が持っていた性差別的な態度に直面したことによる怒り。(3)賃労働や高等教育により多くの女性が加わったことによる偏見や差別の経験。さらにこれらの時期には、女性による女性のための運動は国際的な現象になった。
・フェミニスト理論は世界を、女性にとって見晴らしのよい地点から、すなわち重要であるものの、しかし認められてこなかったような方法で見るのである。そこでは女性はジェンダーによって従属され、また他の様々な実践、すなわち階級、人種、年齢、強制された異性愛、社会空間的な不平等に影響されているとみなされる。こうした土台によって、フェミニスト理論は社会学理論、特にその古典的な主張や初期の研究に対して異議申立てを行い始めたのである。

 

  • 構造主義とポスト構造主義(Structuralism and Poststructuralism)

・構造主義については、これを支持する人々の間に存在する、基本的な差異を描き出すことで、暫定的な感覚を得ることができる。まず、「精神の深い構造」を強調する人々がいる。無意識の構造が、人々の思考や行為を導くという考え方であり、フロイトの研究がこうした志向の例と言えるかもしれない。次に、社会における見えない大きな構造を強調し、これが人々の行為や社会一般の規定要因だとみなす人々がいる。マルクスはこうした構造主義の実践者であると見なされる場合がある。また別の人々は、構造とは社会的世界について人々が構成するモデルだと見なしている。最後に、多くの構造主義者は、個人と社会構造の弁証法的な関係に関心を持っている。精神構造と社会構造には関連があるというものであり、文化人類学者のクロード・レヴィ=ストロース(Claude Lévi-Strauss)が、もっとも多くこの考え方に関連づけられている。
・構造主義が社会学の中で発展するにつれて、社会学の外部で構造主義の初期の前提を乗り越えようとする運動が発展してきている。これがポスト構造主義である。この代表的な人物は、ミシェル・フーコー(Michel Foucault)であり、他にはジョルジョ・アガンベン(Giorgio Agamben)である。初期の研究ではフーコーは構造に関心を寄せたが、後期には構造を超えて、権力、そして知識と権力の関連を重視するようになった。
・ポスト構造主義は、それ自体が重要なだけではなく、ポストモダン社会理論の先駆者であるともしばしば見なされている。実際のところ、ポスト構造主義とポストモダン社会理論を明確に区切ることは、不可能ではないにしても難しい。

 

20世紀後半における社会学理論の発展(Late-Twentieth-Century Developments in Sociological Theory)

  • ミクロ-マクロ統合(Micro and Macro Integration)

・アメリカの社会学理論における、近年の研究はかなりの程度、ミクロ・マクロ理論の関連と、分析の水準(levels of analysis)に関心を持っている。リッツァ(Ritzer)は、ミクロ-マクロ連関は1980年代にアメリカの社会学理論の中心問題として現れ、1990年代でも重要な関心として続いたと主張している。ヨーロッパの社会学者である、ノルベルト・エリアス(Norbert Elias)は、ミクロレベルの礼節(manner)とマクロレベルの国家の関係についての理解を深め、アメリカのミクロ-マクロ連関の研究において、重要な先駆者となっている。
・リッツァは、ミクロ・マクロの水準を客観的・主観的形態と統合する、社会学のパラダイムを発展させようとした。これによって、マクロ主観性、マクロ客観性、ミクロ主観性、ミクロ客観性という4つの分析の水準が存在することになる。ジェフリー・アレクサンダー(Jeffrey Alexander)は、「多次元的社会学」(multidimensional sociology)という、リッツァのモデルに似た分析水準を持つモデルを作り出している。ジェームズ・コールマン(James Coleman)は、ミクロからマクロへの問題に注意を向けた。一方で、アレン・リスカ(Allen Liska)は、コールマンのアプローチを、マクロからミクロへの問題にも拡張した。

 

  • 行為者性-構造統合(Agency-Structure Integration)

・アメリカにおけるミクロ-マクロ統合への関心と平行して、ヨーロッパでは行為者性-構造の統合への関心が発展した。これらの間には共通性が多くあるが、大きな違いも存在する。例えば、行為主体(agents)は通常、ミクロレベルの行為者であるが、労働組合のような集合体も行為主体になりえる。そして構造は通常、マクロレベルの現象であるが、ミクロレベルにおいても見つけることもできる。
・行為者性-構造統合という名前の下に含められる第一のヨーロッパ理論は、アンソニー・ギデンズ(Anthony Giddens)の構造化理論(structuration theory)である。ギデンズのアプローチは、行為者性と構造を「二重性」(duality)であると見なす。これらは分離できないのである。行為者性は構造に関与しており、構造は行為者性に影響を与えている。ギデンズは構造を(例えばデュルケームのように)単に拘束するものであると見なすのではなく、拘束すると同時に、可能性を生み出す(enabling)ものであると見なした。マーガレット・アーチャー(Margaret Archer)は、行為者性と構造を二重性ではなく、二元性(dualism)であると見なした。つまり、これらは分離されなければならないのである。アーチャーはさらに、文化と行為者性の関係へと関心を拡張させたことでも有名である。
・ギデンズとアーチャーはともにイギリス人であるが、行為者性-構造問題で別に有名であるのは、フランスのピエール・ブルデュー(Pierre Bourdieu)である。ブルデューの研究では、行為者性-構造の問題は、ハビトゥス(habitus)と界(field)の関係への関心となっている。ハビトゥスとは、内面化された精神的・認知的な構造であり、それを通じて人々は社会的世界に向き合う。ハビトゥスは社会を生み出すと同時に、社会によって生み出される。界とは、客観的な位置(objective positions)の間のネットワーク関係である。界はハビトゥスを規定し、ハビトゥスは界を構成する。よって、ハビトゥスと界の間には弁証法的な関係がある。
・行為者性-構造連関において、もう一人の主要な理論家は、ドイツのユルゲン・ハーバーマスである。ハーバーマスは批判理論における重要な貢献者であるだけではなく、行為者性-構造問題についても、「生活世界の植民地化」(the colonization of the life-world)という名前での下で取り組んだ。生活世界とは、人々が相互作用とコミュニケーションを行うミクロな世界である。システムは生活世界に起源を有するものであるが、やがてそれ自身の構造的特性を持つようになる。近代世界においては、システムは生活世界を「植民地化する」。すなわち、生活世界を支配するようになる。
・ブルデューは亡くなったものの、ギデンズとハーバーマスは、グローバリゼーションや環境問題について主張をし続けている。ミシェル・フーコーはフランス人であり、社会理論の中心はその生誕地であるヨーロッパに戻ったように思われる。

 

  • 理論統合(Theoretical Syntheses)

・ミクロ-マクロ統合と行為者性-構造統合の運動は、1980年代に始まり、1990年代になっても強力であり続けた。これはより広範な理論統合への運動を生み出した。レバ・ルイス(Reba Lewis)は、社会学の問題は(問題があると見なすのであれば)、過剰な細分化(fragmentation)の結果であり、より大きな統合への試みは、学問分野における地位を高めるだろうと主張している。ここに含まれるのは、構造機能主義とシンボリック相互作用論の統合のような、2つ以上の異なる理論を統合する幅広い試みである。
・また、社会学の外部から社会学理論へ新たな視点をもたらそうとする試みがある。例えば、「社会的・政治的思考」(social and political thought)という表題で、政治理論・社会理論を統合しようとする多くの研究プログラムが存在する。また、生物学的なアイディアを社会学に取り入れ、社会生物学(sociobiology)を生み出す試みがある。合理的選択理論は経済学に根ざしているが、社会学を含む様々な分野に入りこんでいる。システム理論はハード・サイエンスに起源を持つが、20世紀の後半に、ニクラス・ルーマン(Niklas Luhmann)は社会的世界に適用可能なシステム理論を発展させる有力な取り組みをした。

モダニティ・ポストモダニティの理論(Theories of Modernity and Postmodernity)

・20世紀の終わりにかけて社会理論家は、社会が劇的な変化を経験しているのかどうかという問いにますます関心を持つようになった。一方の理論家のグループ(例えばハーバーマス、ジグムント・バウマンZygmunt Bauman、ギデンズ)では、未だに近代と表すことができる社会に私たちは生き続けており、これまでの社会理論家がやってきたのと同じように理論化を行うことができると考えられている。もう一方のグループ(例えば、ジャン・ボードリヤールJean Baudrillard、ジャン・フランソワ・リオタールJean-François Lyotard、フレドリック・ジェイムソンFrederic Jameson)では、社会はあまりにも劇的に変化したので、私たちは質的に異なった、ポスト近代社会に生きていると考えられている。

 

  • 近代の擁護者たち(The Defenders of Modernity)

・偉大な社会学の理論家たち(マルクス、ヴェーバー、デュルケーム、ジンメル)は全員、何らかの形で近代世界とその利点・欠点に関心を持った。ヴェーバーが亡くなった1920年から世界は劇的に変化している。現代の理論家の中には、こうした変化を認めつつも、今日の世界と20世紀末の間には、不連続性よりも連続性があると考えている人々がいる。
・ギデンズは「ラディカルな」、「高度の(high)」、あるいは「後期(late)」近代という用語で、今日の社会を表し、古典的な理論家たちが注目した社会とは異なるものの、連続性があることを示している。ギデンズは今日の近代を「巨大トラック」(juggernaut)として、少なくともある程度までは制御不能なものと見なしている。ウルリッヒ・ベック(Ulrich Beck)は、近代とはかつて産業社会に結びついていたのに対して、新たに出現している近代は「リスク社会」(risk society)としてもっともよく表すことができると主張する。古典的な近代におけるジレンマは、富とその分配であったのに対して、新たな近代における中心問題は、リスクの予防、最小化、誘導(channeling)である。ハーバーマスは、近代を「未完のプロジェクト」(unfinished project)だと見なしている。すなわち、近代世界の中心問題は、ヴェーバーの時代と同様に、合理化であり続けているという。

 

  • ポスト近代の提唱者たち(The Proponents of Postmodernity)

・今日、自らをポスト近代主義者(postmodernists)と称する人々は少ないだろうが、ポスト近代主義は社会理論に大きな影響を及ぼしてきている。手始めとして、ポスト近代(postmodernity)とポスト近代の社会理論(postmodern social theory)は区別されるべきである。ポスト近代とは近代の後に生じていると考えられている歴史的な出来事であり、ポスト近代の社会理論とはポスト近代についての考え方のことである。
・フレデリック・ジェイムソンの記述によって、ポスト近代についての重要な点をいくつかに要約することができるだろう。第一に、ポスト近代とは際限のない(depthless)、表面的な(superficial)世界である。それは、例えばディズニーランドにおけるジャングル・クルーズのように本物ではないシミュレーションの世界である。第二に、ポスト近代とは情熱(affect)と感情(emotion)を欠いた世界である。第三に、歴史における個人の位置についての感覚が失われている。過去、現在、未来を区別するのが困難である。近代の爆発的・拡大的・生産的な技術(例えば、自動車の組み立てライン)に対して、ポスト近代社会では内破的(implosive)、平坦的(flattening)、再生産的(reproductive)な技術(例えばテレビ)が支配する。
・ロゼナウ(Rosenau)によれば、ポスト近代主義者は第一に、多くの古典的な社会学理論を特徴づけている大きな物語(grand narratives)を否定する。むしろ、ポスト近代主義者はより限定された説明か、あるいはそもそも説明しないことを好む。第二に、学問分野に境界を引くことを拒む傾向がある。例えば、社会学理論を哲学的思考や、小説風の語りとの区別である。ポスト近代主義者はしばしば、注意深く、筋道を立てた学術的な言い回しよりも、読者の感情をゆさぶり、驚かせることに関心を持っている。最後に、ポスト近代主義者は、社会の中心(例えば、合理性や資本主義における搾取)よりも、社会の周辺的な要素を重視する傾向がある。