Esping-Andersen (2015) "Welfare Regimes and Social Stratification"

Esping-Andersen, Gøsta. 2015. "Welfare Regimes and Social Stratification." Journal of European Social Policy 25: 124-34. 

  序文をおおざっぱに訳してみました。

 Esping-Andersenはオーソドックスな社会階層研究者ではないので、そのアプローチも面白いというか、特に制度の役割について踏み込む姿勢は勉強になります。また、『三つの世界』では統計的な検証はプリミティヴなものに感じられましたが、この論文ではSobel(1982)のデルタ法による間接効果の漸近的信頼区間の推定に関する研究が引用されているなどして、結構驚きました。 

 

  25周年を迎えた私の『三つの世界』を、Journal of European Social Policy誌がその特別号において再訪するという計画を告げられたことは、私のこれまでの人生においてもっとも名誉な瞬間であった。しかしその後、高揚感はパニックにとって代わられた――どのような意義ある貢献が私に果たせるのだろうか? 25年間の変化を踏まえて、私のレジーム分類を再検証する? 私に向けられた多くの批判に対して反論する? そのような選択肢はまったく退屈なものだと思っていたところ、ある日光明を見出すことになった――これは私がこれまでいかなる面でも真剣に扱うことのなかった、ある大きな問題に取り組むためのすばらしい機会であると。
 『三つの世界』には、大まかにいって2つの目的があった。第一に、福祉国家の多様性の背後にある原因を特定することであった。第二に、この多様性が人々のライフチャンスの質に対して、何らかの大きな影響を持っているかどうかを特定することであった。異なる福祉国家モデルが雇用に対して持つ効果を検証し、それらは質的に異なる「ポスト工業的」階層化シナリオにおける産婆役であると、私は(8章の終わりにおいて)主張した。振り返ると、私が何とか整理した関連データの不足を考えれば、これらの主張はかなり壮大なものに思える。そのため、Journal of European Social Policy誌のこの号が私に与えてくれた他にない機会を利用し、階層化の問題を再訪したい。
 福祉国家が階層化に与える影響を突き止めるためには、通時的(福祉国家の成立前後)および国家間の比較のデザインを明らかに採用すべきである。続く分析においては、社会政策を通じて平等を促進しようという意図的な努力をより行っているために、スカンディナヴィアに焦点化する(ただし比較の観点を用いて)。さらに階層化の次元は一つに、すなわち社会階級の世代間伝達に絞る。
 結論を先取りするならば、社会民主主義レジームは機会構造を効果的に平等化している一方で、保守あるいはリベラルモデルにおいてはそうではないという、説得力のある証拠がたしかに見出される。興味深いことに、これはほとんど例外なく、「ボトムアップ」の達成であった。すなわち、労働者階級の子どもにおける上昇移動のチャンスを促進する一方で、特権的な階級に与えられた有利さにはほとんど影響が及んでいなかった。主要な推進力としては、スカンディナヴィアにおける平等の達成は、他の平等の目的を追求した政策、すなわち教育システムの一応の民主化および女性の解放によって、もっぱらもたらされたものである。
 歴史的に言えば、福祉改革は平等の名の下に決まって着手されてきたものの、福祉国家の主要な目的は社会保護と所得維持にあり、階級構造を作り変えることではない。20世紀の終わりの数十年になってはじめて、機会構造の平等化のための政策への変化を見ることができる。それは一方では教育改革と子どもの貧困を削減する取り組みによるものであり、また一方では女性の雇用とさらなるジェンダー平等を促進することを狙った政策によるものである。そしてこうした変化は疑う余地なく、他のどこよりも社会民主主義レジームにおいて、はるかに強力なものであった。
 福祉国家が階層化のプロセスに与える因果的な影響を特定しようとする試みはいかなるものであれ、潜在的な内生性のために、ことのほか困難である。『三つの世界』において詳細に論じたように、肩を並べ合う私の3つの福祉レジームは、異なるタイプの階級交差連合によってもたらされたものである。社会階層の異なるパターンは歴史的に、異なる福祉国家構想の産婆役であった。たとえばスカンディナヴィアの事例では、強固な社会民主主義、その固有の福祉モデル、その平等主義的な推進力が、すべて共通の歴史的遺産の共同生産物だということがありうる。すなわち真なる説明は、社会民主主義のルールと「国民の家」政策モデルの両方に対して有利に働く条件の中に埋もれているということである。