永井均『私・今・そして神―開闢の哲学』

私・今・そして神 開闢の哲学 (講談社現代新書)

私・今・そして神 開闢の哲学 (講談社現代新書)

 中学生のとき、理科室の備品がなくなるという事件が起きたことがある。先生は生徒の誰かが持って行ったのではないかと疑っていた。その同じ日の午後、クラス全体に向かって発言する機会があったので、私は「物は突然ただ無くなるということもありうるのではないか」という趣旨の発言をした。そういうことはありえないということは、いつ誰が証明したのか、と。
 クラス担任から私の発言を聞いた理科の先生から、私はそういう「無責任な」ことを言ってはいけないと諭された。いま思えば、理科の先生なのだから、あらゆる出来事には原因があると考えなければならない理由を説明してくれてもよかったような気もするが、もちろん、そんな説明はなかった。私は、肩透かしを食ったようで少し残念ではあったが、まあそんなものだろうと思った。
(p.3)

ライプニッツとカントを下敷きに、開闢(それ以上遡行しようのない<私>や<今>や<世界>)について議論されている。

「開闢は、それ以上遡行不可能な単なる奇跡にすぎない」にもかかわらず、そこで開闢したものが「存在する」とはどういうことか、また開闢について言明することはなぜできないのか、など。

ラッセルの五分前創造説からヴィトゲンシュタインの私的言語の不可能性まで、とにかく色んな話がでてきて、かつ丁寧な誘導がないので非常に読みづらかった。「ゆっくりとしか読めない」という書評が多いのも納得。しかし、これが著者の中では全て一貫した問題を扱っているというのだからすごいと思う。